5月の法話(令和4年)
出遇いはかけがえないものであり 当たり前ではないものです
【今月の法語】
遇はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり(一念多念証文)
【法 話】
★遇う・・一般的には「いやなことを経験すること・好ましくないことに出あうこと(遭遇・奇遇など)という意味でも使われますが、浄土真宗の宗祖親鸞聖人は「出あうことがたまたまであり、あい難いものに偶然にあえた」という意味で「遇う」を用いておられます。特に私たちが仏さまに出遇うことができたことを「遇う」と表現されているのですが、その意味は、仏さまのとの出遇いは、私たち人間の立場からは、計画されたものでもなく、全く予期しない出遇いではあるにも関わらず、仏さまの側からすると必然であった(そうなるように働きかけていてくださった)ということなのです。
「袖振り合うも多生の縁」ということわざがあります。この「たしょうのえん」を「多少の縁(ちょっとした縁)だと思っている方もいらっしゃると思いますが、実は「多生の縁」と書きます。多生とは①何度も生まれ変わってくること②多くのものを活かすことという意味を持っています(goo辞典)ですから、「他生・他を生かす」と表記されることもありますが、もともとは①の意味、何度も何度も生まれ変わってもということです。道ですれ違うくらいの、人生には何の影響もないような出あいさえも、何度も生まれ変わってやっと得られるようなものだ‥ということは、お互いに影響をしあいながら生きていく縁(例えば家族・友人・仲間など)との出あいは、もう奇跡としか言いようのないものだということですね。ただ、私たちは日頃はそう思っていないかもしれませんが。

同じような意味の言葉に「対面同座五百生(たいめんどうざごひゃくしょう)」という言葉があります。辞書で見たり検索してみたりすると「対面したり同席したりする人は、たとえ初対面であっても実は過去世で最低でも500回かかわりを持っているのです」という意味だと説明されるものもありますし、「対面したり同席したりできるということは、500回生まれ変わりして初めて得られるものなのです」と説明してあるものもあります。私は後者の意味で理解していますが、たとえ前者の意味でも、「今ここにこうして出あう縁をいただいていることは、当たり前のことではない、尊いことなんですよ。だから一つ一つのご縁を大切にしましょうね」という大切な教えだといえます。500回生まれ変わって初めて得られるものだという意味で考えると、回数の問題ではなく、今ここにある出あいが本当にかけがえのない、大切なものなんだという教えだといただけます。あらためて一つ一つの出あいを、あなたはどう受け止めていますか?大切にできていますか?と問いかけられているようですね。
とあるお寺に小学生を連れて参拝したときに、住職さんが子どもたちにお話しをしてくださったのですが、そのお話の中でこんな質問をされました。「皆さんは『ありがとう』は知っていますね。ではありがとうの反対の言葉を知っていますか?」えっ?という表情の子どもたちに住職さんは「それはね、『当たり前』という言葉です。ありがとうは『有ること難し』ですから、どんなことも『当たり前』ではなく『有ること難し』ですよね」と笑顔で語りかけました。子どもたちへの問いかけですが、私に問いかけられているように思いました。私自身、普段の生活の中では「有り難い」と思うよりも、「当たり前」と思うことの方が圧倒的に多いように思います。ですから「当たり前なんてないんだよ」とあらためて問いただされたような気持ちになりました。