4月の法話(令和4年)
決して目を背けてはいけないことがあります
【今月の法語】
老・病・死を見て世の非常を悟る (仏説無量寿経)
【法 話】
★非常(ひじょう)一般的には、①いつもと変わること・一般的通念では考えられないこと ②天変地異などの不時の変事・思いがけない緊急事態等の意味でつかわれることが多いですが、ここでは無常と同義で使われています。無常とはサンスクリット語でアニトヤanitya、パーリ語でアニッチャaniccaといい、常ならざること、移り変わってすこしもとどまらないこと、生滅変化することを意味します。お釈迦様の説かれた三法印(さんぼういん)中の第一は「諸行無常」です。もっとも古い時代の仏教経典にはしばしば、一切(いっさい)のものは無常であるから苦である、と述べられ、無常は人間存在の苦の根拠とされています。すべてが無常であるから今の楽しみも必ず変化して苦しみになる(その可能性を持っている)という意味です。しかし逆に苦しみが変化して楽しみになる、ということも言えます。

テレビなどでオカルト映像などが流れると、ついつい目を背けてしまうということありませんか。まあ、映画やドラマはあくまでもフィクション(作られたもの・虚構ということ)ですから、見たくないものがあれば無理に見る必要はないので、目を背けてその場面が消えるのを待てばいいだけの話です。
2月24日以降、ミサイルが町を破壊し、人々が戦火を逃れて逃げる様子、また戦争反対という主張をする人々が逮捕されていく様子などが日々映し出されてます。この映像は厳しく悲しい映像ですから「見たくない」と目を背けたくなるかもしれませんが、仮に目を背けたとしても、その場面の映像は消えますが、町が破壊され人々の生活や命が奪われている事実は決して消えません。私たちは「目を背けてはいけない」戦争という現実の前に立たされています。遠いウクライナで起こっていることは、決して遠い国のお話や他人ごとではないと思います。
お釈迦様の言葉に「すべてのものは暴力におびえ、すべてのものは死を恐れる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ ダンマパダ(法句経)129偈」「すべての者は暴力におびえる。すべての生き物にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ ダンマパダ(法句経)130偈」という言葉があります。
「己が身にひきくらべて」というのは、暴力によって殺される側に自分の身を置いてみなさいということです。殺される生命の恐怖や苦しみを、自分自身の恐怖や苦しみとして感じ受けとめるなら、殺す側に立つことは出来ないはずです。戦争を起こすのは個人ではなく、国家や集団ですが、戦争ような暴力を行使して人を殺すとき、必ず「正義」の名のもとに自らの行為を正当化しますが、そこには暴力を受け、悲しい思いをしなければならない生命に対しての「己が身をひきくらべる」思いが欠けています。殺される生命の苦しみや痛みを思い、共感することが、お釈迦様の教える「不殺生(殺してはならなない・殺さしめてはならない)」という生き方のかなめとなるのです。いまこの厳しい状況から目を背けずに、私たち仏教徒はこのお釈迦様の言葉をしっかりと腹に据えていきたいと思います。
あわせてお釈迦様はこのようにも教えています。「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みのやむことはない ダンマパダ(法句経)」すべての命あるものは、命のつながりの中に生きる仲間であるというお釈迦様の教えを真摯に訪ねていきたいものです。