3月の法話(令和4年)
他人事と突き放されることがない仏さまの世界
【今月の法語】
もろもろの衆生において視そなはすこと 自己のごとし (仏説無量寿経)
【法 話】
★衆生(しゅじょう) サンスクリット語のjantu, sattva などの訳語です。意味は命があり生存するものということですが、仏教では「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」(六道)の迷いの世界に存在しているあらゆる命あるもののことを指しています。迷いの世界にいる存在ですから仏さまの救済の対象となるものという意味でもあります。有情(うじょう)ともいいます。 ※仏教では天上(てんじょう)も苦悩から逃れることの出来ない迷いの世界であるととらえています
メディアを通して、日々たくさんの情報が流れてきます。その中にはうれしいニュース、楽しいニュースもありますが、反面心が痛むような悲しいニュース、怒りに震えるようなニュースも届きます。どうしてこんな理不尽なことが起こるのだろうと、全く知らない方の身に起こったことであったとしても、共感して涙を流すこともあります。様々な被害にあわれた方を支援する活動もありますし、悲しみをお互いに分かち合うような活動もあります。これは私たち人間が「豊かな想像力・他人を思いやる心」を持っているからにほかなりません。
また、現在全国各地で毎年のように様々な災害が起こっています。地震や台風、大雨による被害噴火による被害など枚挙にいとまがありません。今はコロナ渦ですから災害等の復旧ボランティアもなかなか参加できないですが、災害が起こると全国各地から、復旧ボランティアに馳せ参ずる多くの方々、現地には行けなくても生活支援の物資や義援金で多くの方々が協力します。そしてまた、以前に災害が起こった地域の方々が、別の地域の災害の支援に動いていかれる姿もしばしば報道されます。「あの時に助けていただいたお返しをさせていただきます」と。これもまた、私たち人間が「豊かな想像力・他人を思いやる心」を持っているからにほかなりません。
こうして、お互いに助け合うこと、特に日本人は昔から「おたがいさま」という精神を大事にしてきました。自然災害も多い国に生きる人々だからこそ、助け合うということが生活の中にしっかりと根付いてきていたのだと思います。このような姿はこれからも続いていってほしいですし、災害のための備えなども、公私ともにこれまで以上に取り組みが進められていますから、心強くもあります。
ところで、浄土真宗のご法話で「私たち人間には本当の慈悲の心はありません。本当に慈悲の心を持っているのは仏さまだけです」と聞かれることがあるかと思います。けれども、今申してきましたように、私たち人間はお互いに支え合い共感しあい生きています。なのにどうしてそんな悲しいことを言われるのでしょうか。実は「末通る(どんなことがあっても変わらない)」ということがあって初めて本当の慈悲と言えると仏教は教えています。その立場から考えると残念ですが私たちは、自分の置かれている状況によっては、それまでの思いや行動が変わってしまうこともあります。自分のほうが厳しい状況になれば、他の方を支えることもできなくなってしまいます。どんなことがあっても変わることなく、私を慈しんでくださることを慈悲というのであれば、悲しいことに確かな私たちには本当の慈悲はないのでしょう。でも、現在の浄土真宗本願寺派の専如門主(せんにょもんしゅ)は、「(前略)たとえ、それらが仏さまの真似事といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。 」と言われています。この言葉を拠り所として、確かに本当の慈悲はないかもしれないし、真似事かもしれないけれども、精一杯 おたがいさまと生きていくことが私たちの在り方だと教えていただいているように思います。