2月の法話(令和4年)
あなたのこと よくわかってくださっている方こそ 仏さま
【今月の法語】
一心にたのみたてまつる機は、如来のよくしろしめすなり (蓮如上人御一代記聞書83条)
【法 話】
一心とは
どの宗教においても「信心」は大切ですが、その信心とはどういう心持のことかということまで、お経では教えてくださっています。仏説無量寿経というお経の中に「至心(ししん)・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)」とあります。聞きなれない言葉ですが、至心とはまことの心ということで、純真な穢れのない心ということです。次の信楽とは仏さまのことを疑わない心ということです。最後の欲生とは浄土に生まれて仏さまになりたいと願う心という意味です。この心持を私たちが持つことを「信心」というのです、と言いたいところですが、よくよく自分自身を振り返ってみますと、私たちは信じなさいと言われてもなかなか素直になれない疑り深い質です(私たちはよく他人に対して「信じていますからね」と言いますが、これは純粋に信じているというよりも、疑いの心が介在しているからそのように言葉にして伝えるということが言えるように思います)し、お浄土に生まれるよりも元気で長生きしていたいという思いが強いように思います。そうすると純真無垢の心とは縁遠いように思います。が、なぜお経には私たちが持つことが難しい心持をわざわざ書いてあるのかと言いますと、これは私たちの心持のことではなく、私たちを必ず救いますとおっしゃる阿弥陀如来様のお心だと教えてくださるのです。そして私たちの信心とは、この深くあたたかい阿弥陀様のお心を、ありがとうございますと素直に受け止めていくという一つ(一つの心、つまり一心)に集約されるというのです。ですから浄土真宗では私たちの心持をあらわすときには「一心」といわれることも多いのです。
たのむとは
頼むというと「○○にしてください、お願いします」というように、私の方からお願いすることを指しますが、浄土真宗で阿弥陀様を「たのむ」といわれるときは、「阿弥陀様、どうか私を助けてください」とお願するのではなく、「私をどんなことがあっても救ってくださる阿弥陀様」のお心を素直に受け止めていくということを指しています。
機(き)とは
仏教で機というときは、機械という意味ではなく、仏さまの教えを聞き、その教えに反応する力のあるものという意味で、特に私たち人間のことを指します。歯車(機械)は、自分自身が動く力はなくても、自分に働いてくる力によって自らも周りまた次のものにも回る力を伝えますね。私たちは仏さまの教えにあってその教えに反応し、また同時に次の人にも伝える存在だということです。
阿弥陀如来さまは、私を必ず救うと誓われた仏さまです。「必ず救う」という誓いは、ある時だけ(例えば亡くなるとき)に限定することではなく、いつでもどこでもどんな時でもあなた(私)を見ていてくださる、私に寄り添いながら私のことをそのままに受け止めてくださっているということです。誰もわかってくれないのではなく、阿弥陀様がわかっていてくださいますよ。