8月の法話(令和5年)
どんな命にも深い慈しみを
【今月の法語】
「あたかも、母が己が独り子を命を懸けても護るように、そのように
一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。」
スッタ二パータ(経集)
【法 話】
お釈迦様の教団には「安居(あんご)」というものがありました。安居とは一定期間外出せず、こもって修行・学習をすることです。これが雨期に行われていたことから「夏安居(げあんご)」とも言われています。
インドでは6~10月頃が雨期となります。雨期には川が氾濫し、交通が困難になります。また同時にこの時期は草木や無地がよく成長する時期にもあたります。
そこで、足元の悪いこの時期に外出し、虫たちを踏みつぶしたり、新芽を痛めることを避けるために、出かけることを控えて一か所にこもって修行や学問に専念することになったといわれています。この安居の間は在家の信者の方々が修行者の食事を運び、そのお返しに修行者から仏さまのお話を聞くということを習いとしていました。乾期になって外に出かけるときも、虫を踏みつぶさないように摺り足で歩き、水を飲むのにも虫が入らないように布で濾(こ)してから飲むようにもしていたといわれます。
このように徹底していたのは、「不殺生(ふせっしょう)」という規律を忠実に守るためでした。この「いのちあるものを殺すな」という不殺生とは、その様な仏の慈悲心を生活の中で実践して生きていこうとする、具体的な生活規範です。しかし私達の実生活を振り返ってみますと、殺生をせずには生きられません。徹底して不殺生を実践したら何も食べられなくなります。体を動かすことすらもできなくなってしまいます。それならばなぜ、お釈迦様はその不可能な不殺生戒を定められたのでしょうか。
お釈迦様が「不殺生」という戒を示された本意は、示すことによって、実は私達のいのちは「殺生」という事実の上に成り立っている、その事に気付き決して忘れてはいけないということ、他のいのちの犠牲の上に立って生きているということを忘れないでほしい願いであり、そして気づいたものは、他のいのちを生かす者になりなさい、そして命を愛する人になりなさいということではないかと思います。不殺生戒を守れない自分を発見するからこそ、自分のいのちも他のいのちも同じく敬愛し、大切に生かそう、一緒に生きていこうという願いが私たちの中に生まれてくることをお釈迦さまは願われたのではないでしょうか。
テレビなどで食事をするシーンを見ていますと、手を合わせたり、「いただきます」と言ってから食べ始める光景をあまり見なくなりました。一時期公教育の場では「いただきます」は宗教的な行為だから行わないようにしたという時期もありました。確かに宗教的な側面を持っている言葉ではありますが、この「いただきます」は、敬意を表する動作から生まれた言葉であり、それは作ってくれた人に対してのみならず、肉や魚、野菜や果物などの「食材」となってくれたいのちに対しての深い敬意の言葉です。「宗教的だから」と廃止してしまうのはあまりにももったいないと思います。
スッタニパータの言葉をしっかりと胸にとどめながら、私のいのちとなってくれた他のいのちに対しての敬いを忘れないということを大切に伝えていきたいものだと思います。