7月の法話(令和5年)
仏さまの教えを聞いて、人に生まれるということの
不思議さ尊さに気づきましょう。決して当たり前ではありません
【今月の法語】
「まれにも受けがたきは人身、あいがたきは仏法なり」(蓮如上人 御文章)
【法 話】
日頃の生活を振り返ってみましょうか。
あなたは普段、一つ一つの出来事に対して、なんと有難いことだと感謝の気持ちを持っていますか、それとも特に何も考えることはないですか。あらためてそんなことを聞かれても、「普段はそんなこと考えたことはないよ」と言われるかもしれませんね。では時間を追って考えてみましょう。
1)朝目が覚めたことを、有難いことだと思えるか、別に何とも思わないか。
2)朝ご飯をいただくことを有難いことだと思うか、別に何とも思わないか。
3)仕事に出かける、学校に出かける、遊びに出かけるなどなど、その日の目的を持っていることを有難いことと思えるか、別に何とも思わず、時によっては愚痴や不平不満が出てくるか。
4)夜床につくときに、今日の一日を振り返って、有難いことばかりだったと思えるか、別に何とも思わないか・・。
ちょっとくどかったかもしれませんが、たまにはこうして振り返ってみるのもいいかもしれません。
人に尋ねてばかりではなんですから、私自身を振り返ってみると、よほどのことがない限りは、別に何とも思わないということばかりでのように思います。別に何とも思わないということは、言い方を変えると「当たり前のこと」と思っているということです。そして、「そんなことは当たり前だ」「別に驚くことでもない」ということを、私は普段はしばしば口にしているように思います。
この、当たり前という言葉の反対の意味を持つ言葉が「有り難い」という言葉だと教えてもらいました。ご存知の通り「ありがとう」という感謝の言葉は「有り難い」という言葉から生まれたものです。読んで字の通り「有ることが難しい」こと、つまり当たり前ではないということです。実は当たり前ではないことの繰り返しの中にいるのが私たちで、その一つ一つに感動した言葉が「ありがとう」なんだとも教えてもらいました。
浄土真宗本願寺派の住職であり、なおかつ教育者でもあった東井義雄さんの「目がさめてみたら生きていた」という詩をご紹介しましょう。
目がさめてみたら 生きていた 死なずに生きていた
生きるための一切の努力をなげすてて 眠りこけていた私であったのに目がさめてみたら 生きていた
劫初(ごうしょ)依頼一度もなかった まっさらな朝のど真ん中に生きていた いや 生かされていた
★劫初・・この世のはじめという意味の仏教用語
この詩を貫いているのは、すべてのことが決して「当たり前」のことではなく、「有ること難いことである」ということへの感動と感謝です。そのことが最もよく表れているのが最後の一行です。生きていたのではなく、生かされていたのだという言葉にすべてが込められているように思います。