6月の法話(令和5年)
私のことをよくわかっていてくださる仏さまの前では
取り繕う必要もありません。私は私のままで大丈夫
【今月の法語】
「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば」(歎異抄)
【法 話】
親鸞さまの言葉に「煩(ぼん)は身をわずらわす、悩(のう)はこころをなやますという」(唯信抄文意)というものがあります。実は親鸞さまはこのように、文字を使い分け分析してそれぞれの意味を示されることがあります。
たとえば「歓喜(かんぎ)」という言葉を「歓喜といふは、『歓』は身をよろこばしむるなり『喜』はこころによろこばしむるなり」(一念多念文意)と説明しておられます。身と心は切り離して考えることはできないということを仰っているのでしょう。同じように煩悩についても、身と心は切り離して考えることの出来ないものだと仰っているのだと思います。
煩悩という言葉は「子煩悩」とか「煩悩がわく」と言うように、かねてから使われることも多い言葉ですが、仏教が説く「私たちの心身を煩わし悩ます精神作用の総称」で、『染(ぜん)』『染汚(ぜんま)』などとも訳されます。最も基本的なものとして貪欲(とんよく:貪りの心)・瞋恚(しんに:怒りの心)・愚痴(ぐち:智慧がないこと)が「三毒の煩悩」として有名です。仏教ではこの煩悩を離れることを解脱(げだつ・さとりのこと)としています。 大晦日に108回の除夜の鐘をついて煩悩を消すということをお聞きになった方もいらっしゃると思いますが、このように人間の中にあることは好ましくない精神作用、打ち消して生きたい心持ちのことだと理解されています。
さてこの煩悩ですが、親鸞さまの書かれた文章を見てみますと、煩悩という言葉を冠にして「煩悩成就(ぼんのうじょうじゅ)」「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」「煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)」という四字熟語がよく見られます。これらの熟語はすべて、私たちを説明する文脈の中で用いられています。煩悩成就とは私たちが煩悩によって出来上がっている存在であるということ、煩悩具足とは私たちが煩悩を丸抱えしている存在であるということ、煩悩熾盛とはその煩悩が燃え盛る火のように勢いが強いことをあらわしています。つまり私たちは日々煩悩を抱えながら、わずらい悩み続けている存在なんだということです。
同じく親鸞さまの言葉に次のようなものがあります。「『凡夫』といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり」(一念多念文意)」(無明とは、智慧がないことから苦しみを繰り返すことです)。
先ほど大晦日の除夜の鐘のことを紹介しましたが、親鸞さまの言葉によれば、煩悩は亡くなるその時までずっと私たちが抱え持っているもので、鐘をついて消えるようなものではないのです。自分たちの日暮らしを考えてみると、人と比べて喜んだり悲しんだり、ねたみの心が起こってみたり、悪口を言ってみたりの繰り返し、「煩悩具足」と言われても仕方がないというのが正直なところです。
そして、この私が煩悩具足であることをすでによくよくご存じの方が「阿弥陀如来」という仏さまですが、「煩悩具足だからけしからん」とお叱りになるのでなく、「煩悩具足だからこそ救わずにはおれない」と、私に寄り添い続けてくださっているのです。ですから、阿弥陀様の前では取り繕う必要はありませんが、だからと言って「どうせ凡夫だから」と居座るのではなく、少しでも腹を立てず、ねたまず、悪口を言わない日暮らしを心掛けたいものです。
★妙行寺では「除夜の鐘」は煩悩を消すためという意味付けでなく「去る年のたくさんのご恩に感謝し、来る年に希望を持って臨む鐘(感謝と希望の鐘)としています