4月の法話(令和5年)
何も心配しなくて大丈夫
私たちはいつも仏さまとご一緒なのです
【今月の法語】
「他力には義なきを義とすとしるべし」 三経往生文類(親鸞聖人作)
【法 話】
まずもって他力とは・・・・他力とは自己を超えた絶対的な仏の慈悲のはたらき、本願とは全ての命あるものの救済を約束する仏の願いをさします。このことばは浄土真宗の教えを示す重要な基本用語として用いられますが、表現としては「他力本願」よりも「本願他力」という方がより正しい表現です。親鸞聖人は「他力とは本願力なり」とお示しになられ、一切衆生(私たち)の救済はこれによって成立することを明らかにされています。
ところで・・・「他力本願」は別の意味で使われることの方が多いです。ある商社のブログには「『自分が会社を良くするんだ!』当事者意識と他力本願からの脱却が個人レベルで必要だ」と書かれています。またある団体の日報には「他力から“自力本願”へ脱却 (前略)そして何より、全ての職域の薬剤師一人ひとりの覚悟と実行力が問われる年であると思います。そして、他力本願から“自力本願”へ脱却する必要があります。」と書かれています。ここで使用されている「他力本願」は、上で説明した「阿弥陀如来の願いとはたらき」という意味ではなく、「自分では何もせずに、他人の力あてにする」というような意味で使われていて、そこからの脱却を進めています。対して「自力本願」という言葉が造られ、「自分で頑張ること」という意味で推奨されています。ある有名なアニメのオープニングテーマにも「自力本願レボリューション」という題名の曲が使用されているほどです。言葉は生き物ですから、「他力本願」が多様な意味を持つことを否定はできませんし、自力本願という言葉はもともと仏教用語にはない言葉ですが、新しい造語だと否定することもできません。(※自力という言葉は仏教用語で「自分の力で修行をして善を積んで(作善)悟りを得ようとすること」という意味で使われます)ここではその言葉の意味云々出なく、今日的な意味で使われているその内容について少し考えてみたいと思います。
自己責任とか、自助という言葉は最近しばしば聞かれるようになってきました。ですから、他力本願(他人の力をあてにする)ということに対してどちらかというと否定的で、自力本願(自分の力で頑張る)ということが推奨されるのもうなづけますが、でも本当に私たちは「他力本願(他人の力をあてにする)ではだめなのでしょうか。自分で頑張ることも大事かもしれませんが、その根底に支え合うこと、お互いに助け合うこと(お互いさま)ということがあることも忘れてはならないものだと思いますが、皆さんのどうお考えになりますか。
「自立とは誰かに「助けて」といえること」と雨宮処凛さんは「生きづらい時代を生き抜く作法」の中で言われています。「身近な精神的に追い詰められている若い世代が、『助けて』を言えないばかりに、『助けて』と声を出せずに死を選んでいる友人たちを何人か持っていて、そこから出てきた言葉だ。いっとき『自己責任』という言葉が流行った。なんでもかでも『自己責任』なら国も要らないし、自治体も、福祉も教育も要らなくなる。そんなスーパーマンは世の中には誰もいない。」
また、東京大学先端科学技術研究センター准教授の熊谷晋一郎先生(生後間もなく脳性麻痺により手足が不自由となる。小学校から高校まで普通学校へ通い、東京大学に進学。医学部卒業後、小児科医として10年間病院に勤務。現在は障害と社会の関係について研究するとともに、月2回ほど診療現場に出ている)は、「それまで私が依存できる先は親だけでした。だから、親を失えば生きていけないのでは、という不安がぬぐえなかった。でも、一人暮らしをしたことで、友達や社会など、依存できる先を増やしていけば、自分は生きていける、自立できるんだということがわかったのです。『自立』とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。」といわれています。よく考えてみたいことだと思います。