3月の法話(令和5年)
仏教とは
私自身の本当の姿を教えていただく教えです
【今月の法語】
「如来の本誓、機に応ずることを明かす」 顕浄土真実教行証文類 行巻「正信念仏偈」
【法 話】
※妙行寺の山号は「深機山(じんきざん)」です。山号とは寺院の名前の前に冠する称号で、かつて多くの寺院が山にあったことから○○山とつけるようになったものですが、必ずしも山の名前であるとき限りません。深機山は地名ですが、同時に「深く機(自身)を見つめる」という意味も持ちます。

仏教用語に「機(き)」という言葉があります。
この機という文字は、一般的には「機械」「機会」と言うように使われます。その意味としては①物事の起こるきっかけ、また物事をするのによいおり。機会・時機 ②物事の大事なところ、かなめ ③はた、しかけ、装置、しくみ ④飛行機の略称 ⑤仏語で「仏の教えに触発されて活動を始める精神的能力。教えを受ける人、或いは修行をする人の能力・素質(ここまで参考『goo辞書』)と説明されています。今回はこの中の⑤の仏語というところをもう少し詳しく見ていきましょう。
仏教では「機」とは「私たちのこと」とされています。「浄土真宗辞典」には、「天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)の著した『法華玄義』という書物には、機は「微」・「関」・「宜」という意味があると書かれています。
最初の「微」とは「かすか」「きざし」という意味で、仏様の教えを聞いて菩提心(仏になろうという心)を発動する「かすかなきざし」を持っている存在ということです。「馬の耳に念仏」ということわざがあるように、教えがあってもその教えを聞き反応する力がないと教えも意味を持ちません。私たちは教えを聞いて反応する可能性を「わずかながら」ですが持っているということです。
二つ目の「関」とは「かかわる」「あずかる」という意味で、仏様の教えは私たちを対象として説かれたものであるという、深い「かかわり」があり、救いに「あずかる」べき存在であるということです。
三つ目の「宜」とは「よろしくあい応じる」という意味で、私たちは仏様と深く相応する関係であるということです。
あるお寺の役員をされている方のお話です。「私の母は仏様の教えをとても大事にした人でした。法要があればお寺に参って、どんなお話だったかをいつも私たちに聞かせてくれました。でも、私は母がお寺参りをすることをあまり快く思っておらず、お寺参りは勿論、ほとけ様の教えというものに対してずっと背を向けていました。そんな私に対して母は厳しく『お参りをしなさい』ということもありませんでした。今振り返れば「一緒にお参りをしよう」と、どれほど私を誘いたかっただろうなと思います。
そんな母も亡くなり、母の遺品を整理していた時のことです。母が大事にしていたノートを何気なくパラパラとめくって、最後のページになった時に私の目はそこにくぎ付けになりました。母の字でページ一杯に「○○男、お浄土に来てね。○○男、お浄土に来てね」とずっと書いてありました。直接は言うことはなかった母の思いが、そこにありました。私はそのページを観ながら、涙が止まりませんでした。私を思ってくれる母の思いと、その母に背を向け続けてきたことが残念で。
こんな私ですが、それでも母の思いに応えなければと、今お寺参りをさせていただき、こうして役員までつとさせていただいています。阿弥陀如来さまに願われ続け、数限りないご先祖の方々に導かれ、母に手を引かれて、やっとぼんくらの私も仏様に手を合わす身になりました。お恥ずかしい限りですが」と大事にたたまれたお母様のノートの最後のページを見せながらお話しくださいました。