2月の法話(令和5年)
仏様の教えを聞きながら
穏やかな心で日々を過ごしていきましょう
【今月の法語】
「それ衆生ありて、この光に遇うものは、三垢消滅し、心身柔軟なり」
仏説無量寿経上巻
【法 話】
【説明】 三垢(さんく)とは・・三毒の煩悩とも言います。「貪欲(とんよく)」・「瞋恚(しんに)」・「愚痴(ぐち)」のことで、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な煩悩のことです。
①貪欲とは貪りのことで、必要以上に求め、足ることを知らないこと
②瞋恚とはいかりのことで、怒りや憎しみに心が支配されていること
③愚痴とはおろかさのことで、心理に対する無知からくる惑いのこと
この三毒の反対として三心所が説かれます
無貪 貪らず分かち合う心としての「布施」(施しの心)
無瞋 怒りに支配されず慈しみの心を持つ「慈悲」(いつくしみの心)
無痴 惑いを離れた知恵を持つ「智慧」(ありのままに見る心)
仏教徒には「三毒」を離れて、「三心所」に基づく生活が勧められます
※貪欲を鶏・瞋恚を蛇・愚痴を豚がそれぞれ象徴する動物として挙げられています(絵はそれを描いたもの)
仏様の教えを聞くと言うことは、知らず知らずのうちに「三垢(貪欲・瞋恚・愚痴)」に心が支配されていたことを知らされることだとも言われます。実際に、仏様の教えを聞いた方々が「なんともお恥ずかしいことです」と感想を仰いますが、まさにこれまで当たり前に思って生活していたけれども、煩悩に心を支配されていたんだなあと気づかされたという思いなのです。気づいたならば、少しでも三垢を離れた生活というものを心掛けていくでしょうし、そうすることで、穏やかな心で生活をしていくことができるはずです。
しかしながら、一度気づいたくらいで簡単に変わらないのが私たちです。仏様の前に座って心が穏やかになったと思うのもつかの間、また煩悩の心が沸き起こってきます。親鸞聖人も、私たちはこの命が尽きるときまでずっと煩悩を抱えた存在だとおっしゃっています。では私たちは煩悩を抱えたまま変わることもなく生きていくしかない存在なのでしょうか。それではあまりにも悲しすぎますし、仏様の教えを聞く意味もないように思われます。
煩悩を抱えたままではあるけれども、仏様の教えを聞く縁を持った者の生き方ということを、実は親鸞聖人がご門徒の方々に書かれたお手紙の中で、丁寧に教えてくださっています。その部分をご紹介します。
「私たちは以前と違い、今は阿弥陀仏の教えを聞き始めるようになられたのです。 以前は無明の酒に酔って、 貪欲・瞋恚・愚痴の三毒ばかりを好んでおられましたが、 阿弥陀仏の教えを聞き始めてから、 無明の酔いも次第に醒め、 少しずつ三毒も好まないようになり、 阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。ところが、 まだ酔いも醒めていないのに重ねて酒を勧め、 毒も消えていないのにさらに毒を勧めるようなことは、 実に嘆かわしいことです。 煩悩をそなえた身であるからといって、 心にまかせて、 してはならないことをし、 いってはならないことをいい、 思ってはならないことを思い、 どのようにでも心のままにすればよいといいあっているようですが、 それは何とも心の痛むことです。 酔いも醒めないうちにさらに酒を勧め、 毒も消えないうちにますます毒を勧めるようなものです。 薬があるから好きこのんで毒を飲みなさいというようなことはあってはならないと思います。 阿弥陀仏の教えを聞いて、 お念仏するようになってから久しい人々は、 後に迷いの世界に生れることを厭い、 わが身の悪を厭い捨てようとするすがたがあらわれてくるはずだと思います。」
煩悩が後から後から生まれてくる私たちの心ではありますが、その中に決して消えない小さくても確かな光があり、その光は、穏やかな心で日々を過ごしていく道標であると受け止めていきたいです。