10月の法話(令和4年)
人の幸せを願うことの出来る幸せ
【今月の法語】
「ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり」
親鸞聖人御消息14条
【法 話】
本願寺からお迎えしたご本尊の掛け軸の裏を見ますと「方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)」と書かれています。本来真実というものは色もなく形もないものであるとされていますが、阿弥陀如来という仏さまは、文字や形を通して理解する私たちにわかりやすいように、名前を持ち、姿や形をもって私たちの目の前にいてくださる仏さまであるということです。
一般に「方便」とは、「嘘も方便」という言葉がありますので、嘘ということなのかと思いがちですが、「わかってもらうための手立て・方法」という意味です。阿弥陀如来として私たちの前に姿を見せてくださることを「有相方便(うそうほうべん)」といいます。
阿弥陀如来の姿にはそれぞれに意味があります。それはわたしたちへのメッセージが込められています。阿弥陀さまの頭は、二段になっています。上に盛り上がった部分は「肉髻(にっけい)」といって、私たち人間とは比べ物にならないほどたくさんの智慧を持っておられるので、知恵袋のようになっています。眼は『半眼(はんがん)』といい、半分開いておられます。私たちを、慈悲の心でご覧になっていることを表しています。
手の指の間には、水かきのような膜があります。これは、すべてのものをもらさずすくい取り、決して見捨てないという心を表しています。足はへん平足で、土踏まずがありません。これは、足と地面との間に隙間がないということで、私たちと隙間ひとつ開けないように、いつも私たちにピタッと寄り添っていてくださっているということを表しています。
阿弥陀如来は右手を上にあげておられます。これは「召喚の印(しょうかんのいん)」ということで、教えを聞きなさいということとともに、私はいつでもここにいるよ、一緒にいるよという安心を与え陽とする心をあらわしています。左手は下に下げておられます。これは「摂取不捨の印(せっしゅふしゃのいん)」ということで、どんなことがあっても私たちのことをその手の中に救い取って、絶対にはなさないということをあらわしています。
そして何よりも、浄土真宗の阿弥陀さまは前かがみに立っておられます。これは、私のところにいつも働いていてくださる仏さまであることを表しているのです。苦悩の中に生きる私たちを救わんがために立ち上がり、私と命を共にして精一杯働いてくださる慈悲を表した姿なのです。たとえば、ようやく歩き出した「危ない」ということも知らない幼子が、自動車の行きかう表通りへヨチヨチと出て行くのを見て、母親は家の中でジッと眺めて「危ないよ!」と叫んでいるわけにはいきません。どんな大事な仕事でもさしおいて駆け寄って助けることでしょう。そのような心をあらわしています。
最初に申しましたように本来は色もない形もないのが真実です。しかしそれでは私たちが理解することもできないので、私たちがわかるように形を通して教えてくださっているのですね。そして形を通して教えられた心を受け止めるとともに、その心の真似事でもいいですから、他人に向けていくことができたら、とても尊いことだと思いますし、それが阿弥陀如来を拝んで生きる人の幸せな生き方なのでしょう。