8月の法話(令和4年)
支えられ、見守られていることに、なかなか気づきにくい私たち
【今月の法語】
「南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり」
浄土和讃(現世利益和讃) 親鸞聖人
【法 話】
徳川将軍家の剣の指南役として有名な「柳生家」には有名な家訓があります。
「小才は、縁に出会って縁に気づかず
中才は、縁に気づいて縁を活かせず
大才は、袖すり合う縁をも活かす」
というものです。
終活(介護・看取りや葬儀・埋葬、相続に関することなどを事前に準備しておくこと)の話になると、「私はわが子やほかの人にも迷惑をかけたくないから、お葬式はしなくていいし、お骨も散骨でいい」とおっしゃる方がおられます。もしかしたらこの文章を今読んでくださっている貴方もそのようなお考えを持っていらっしゃるかもしれませんね。お子様方をはじめ、周りの方々への思いからおっしゃることだと思います。そのお気持ちは大切にしたいと思います。けれども実際にこんなことも聞かせていただいたこともあります。「母は誰にも相談せずに、もちろん私たちにも相談せずに、一人で決めてしまっていました。私たちからすれば、相談してくれたらよかったのに、と思います。やっぱりお葬式もしてあげたいし、お骨もお墓か納骨堂に納めたいと思います。迷惑をかけたくないからというけれど、親子なのだから迷惑くらいかけてよ、恩返しさせてよ、と言いたいなあと。実際は迷惑なんかじゃないんですけどね」
「私はこれまで、だれにも迷惑をかけずに生きてきたと胸を張っていました。でも、自分が癌になって看護をされる立場になって、いろんな方々に助けてもらいながら気づいたことがあります。これまで誰にも迷惑をかけたことがないなんて、とんでもない思い上がりだったのです。生まれてからどれだけ親や周りの人に支えられて来たことでしょうか。大人になってからも、家族や周りの方々、友人たち、多くの人たちから支えてもらってきました。そしてもうしばらくしたら人生を終わっていくと思いますが、その時まで誰かに助けられながら旅立っていくのでしょう。生まれてから死ぬまで、人の手を煩わせなかったことはひと時もなかった。なんと傲慢な思いで生きてきたことでしょうか。恥ずかしい限りですが、思い返せば『迷惑だ』と面と向かって言われたこともなかったです。お互い様おかげさまの中に生きてきていたんですね」かつて緩和ケア病棟で出会ったSさんがしみじみ話してくれたことを今でも思い出します。
迷惑というときつい感じがしますが、この方々が仰っているように、助けてもらっている・支えられていると表現すると、人生どんな時でもそうだよなあと思います。一人で生きてきたわけでも、生きているわけでも、生きていくわけでもないですからね。でもついつい忘れてしまうのも私たちです。柳生家の家訓が胸にドーンと響きます。私は小才だなぁやっぱりと。
生きている者同士の縁にもなかなか気づきにくい私たちですから、ましてや仏さま方にいつも見守られていることなどさらに気づきにくいのかもしれませんが、親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」とお念仏を申してごらん、数限りない仏様が、いつもあなたのことを見ていてくださっているよ。と教えてくださっています。なんと心強く有り難いことでしょうか。