7月の法話(令和4年)
私たちは、必ず帰る「真実のふるさと」を恵まれています
【今月の法語】
「来」は浄土へ来たらしむといふ。
これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり
唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)親鸞聖人
【法 話】
若不生者(にょくふしょうじゃ)について
・・浄土真宗の拠りどころとする経典の一つである「仏説無量寿経」の中で、阿弥陀如来は私たちを救うために48の願いを立てておられますが、その中心となりますのが第18番目の願です(これを「第18願」と言います)。第18願の内容は、「私(阿弥陀如来のこと)が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、私は仏になるわけにいきません。」という誓いです。この誓いから、もし私たちが救われないのであれば、自分自身も仏になるわけにはいかないという、私たち一人ひとりと一体(同体・決して他人事ととしないこと)となった阿弥陀如来の心を伺うことができます。
鹿児島では見かけることが少ないのですが、浄土真宗のご門徒さんが多いといわれる地域では、お墓の正面に「倶会一処(くえいっしょ・ともにひとつのところで会うという意味です)」と刻んである墓石をよく見かけます。(上の写真はその一例です)
この倶会一処という言葉は、浄土真宗の拠りどころとする経典の一つである「仏説阿弥陀経」の中に説かれています。お釈迦様が「この教えを聞いた人々は、お浄土に生まれて仏さまになりたいと願いなさい。なぜならばお浄土に生まれたら、先にお浄土に生まれて仏さまとなられた方々とも、ともに一つのところで会うことができるからです」と説いてくださっているのです。
先人たちは、このお経の言葉を大切にしてこられました。亡き方々のご遺骨を納めている墓所にこの文字を刻んで、「生まれたものは、誰が先になり後になるかはわからないけれども、必ずその営みを終えていかなければならない。私たちに命をつないでくださった先祖の方々もみなその命の営みを終えていかれた。けれども阿弥陀如来の教えに出会ったものは、死は往生(浄土に生まれて仏になること)であり、みんな仏さまとなってお浄土にいらっしゃいます。私もいつかはこの命を終えていきますが、わたしもまた必ずお浄土に生まれて、仏さまとなり、先立って行かれた方々ともご一緒できるのだ。それが阿弥陀如来さまのお誓い(若不生者のちかい)だから」と受け止めてこられたのです。 以前何度か、「死んだ後の世界にもランクがあるんでしょうか」というお尋ねを受けたことがあります。その際には「ランクがあった方がいいですか」と逆にお尋ねすると、だれもが「ない方がいい。みんな一緒がいいです」とおっしゃいました。そうですね、ランクなんてない方がいいです。私たちはみんな同じ阿弥陀様のおさとりの世界であるお浄土を帰る「いのちのふるさと・倶会一処の世界」といただいていますから、何も心配する必要はないのです。