6月の法話(令和4年)
偉ぶらずに謙虚である人が、本当の賢き人なのでしょう
【今月の法語】
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり 愚禿鈔(ぐとくしょう)親鸞聖人
【法 話】
愚禿(ぐとく 禿※1)について・・この愚禿という言葉は、僧侶が自らのことをへりくだって言うときに用いる言葉ですが、特に親鸞聖人が自らの生涯の名のりとされたことが有名です。親鸞聖人は「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名のり、どんなことがあっても救うと誓われた阿弥陀如来の前では、ご自身はどこまで行っても、どう取り繕っても、自分中心の心を離れることができない愚かな凡夫(ぼんぶ ※2)であると告白されたのです。

※1今では髪の毛がない事を指しますが、仏教の経典を見ていくと、禿とはいわば「偽物の坊さん」という意味で説かれます。しかしそれは他者から言われることではなく、自分自身で自覚して名のるものです。比叡山を開いた伝教大師最澄は、自身の事を「愚中の極愚、狂中の極狂、塵秃の有情、低下の最澄」と言われています。このような厳しい自己反省は浄土教の流れの中には強く受け継がれ、親鸞聖人の師匠である法然聖人も自身の事を「愚痴の法然房」と述べています。

※2一般的には平凡な人、凡庸な人、無知な人等という意味で使われますが、仏教では、仏教の説く真実の道理をいまだに十分に理解せず、煩悩に惑わされている人のことを言います。惑いの世界である地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を輪廻する存在という意味でもあります。
親鸞聖人を語るときに、「親鸞聖人という方は、厳しく自分自身を見つめた方・自己内省の厳しい方である」ということがよく言われます。
確かに親鸞聖人の書かれたものを見ていきますと、今回の法語のように、ご自分の内面に対して厳しいまなざしを向けられ、そのままに表現しておられるものが多いです。聖人晩年の作である「愚禿悲嘆述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)」のなかにも、「浄土の真実の教えを聞いて生きているけれども、この私にはまことの心などさらさらありません。嘘偽りばかりを繰り返して生きている私ですから、清らかな心など有るはずもありません」(現代語訳)という大変厳しい言葉がつづられています。
親鸞聖人が自分を厳しく見つめられた方であることは間違いありません。聖人を評して「これほど厳しく自己内省をした方はいないので、思想家としての親鸞はすごい」と仰る方もいらっしゃいましたが、上の説明のなかにも紹介しておりますとおり、厳しい自己内省をされているのは、決して親鸞聖人だけではなく、伝教大師最澄も、法然上人も同じように厳しい言葉でご自身を語っておられます。
では、この方々に共通すること何なのでしょうか。それは仏さまの教えに出遇った方々であるということです。特に阿弥陀如来という、どんな人も必ず救うという大慈悲に出遇った方々なのです。この大慈悲の心の前に立つとき、自分自身のちっぽけさを痛感されたのが聖人方であったといえるのではないでしょうか。ただこの述懐は、単に自分自身の真の姿を知ること同時に、この力弱き凡夫である私が、間違いなく救われるのだという確信と喜びを得るということでもあったのです。
私は親鸞聖人や伝教大師最澄、法然上人などの先師の方々は、自己内省が厳しかった思想家というよりも、阿弥陀如来の教えに出遇い救われる喜びに生きた「信心の人(信仰者)」というべきなのではないかと思います。