12月の法話(令和5年)
みんな仏さまにならせていただく大切な人生を歩んでいます
お互いを敬い合いましょう
【今月の法語】
「おのおのみな往生は一定とおぼしめすべし」 親鸞聖人御消息 (お手紙) 第2通より
【語句説明・豆知識】
親鸞聖人御消息(ごしょうそく)とは・・・ 親鸞聖人が関東から京都に帰られてお亡くなりになられるまでに、関東各地の門弟に送ったお手紙のことで、43通が現存しています。そのほとんどは『御消息集』『血脈文集』『末灯鈔』という書物に収録されています。その内容は門弟の質問に対する返事や親鸞聖人の身辺のことであり、門弟からの懇志に対するお礼に添えて書かれたものなどもあります。
『浄土真宗聖典』では、年代の確定できるものおよび年代の推定が確実視されるものを年代順に、次に年代の推定に疑問が残るもの、そして年代が不明のものを月日順に配列するという編綴方法をとり、書名については『親鸞聖人御消息』とされています。このご消息(お手紙)を通して、関東の門弟たちの間で、教えの理解の上でどのようなことが問題になっていたかを推測することができます。特に「悪人(あくにん)」についての身勝手な解釈である「造悪無碍(ぞうあくむげ・・悪を作っても障りにならない・悪を作るほど仏様の願いが届くなどの誤解)」に対する厳しい批判などがみられます。また、時の為政者による念仏する人々への弾圧に関することや、教えの上では実子を義絶すること(善鸞義絶)に関連するものがいくつかみられます。全体としては、晩年の親鸞聖人の教えの理解がうかがわれるとともに、自らを慕う人々に対しての親鸞聖人の態度や門弟の信仰態度などを知ることができ、初期の真宗教団の動静をうかがうに欠かせぬものです。
【法 話】
このお手紙(第2通・建長4年親鸞聖人80歳の時のお手紙)では、親鸞聖人を慕い、長年阿弥陀如来の教えを信じて生きてこられたお仲間(お弟子様・明法房と平塚の入道)が相次いで亡くなられた(お浄土に往生されて仏さまになられた)という知らせに対しての親鸞聖人の思いが述べられています。苦楽を共にし、信頼しあってきたお仲間とのお別れは、80歳の親鸞聖人にとって悲しく辛いものであったと思います。けれども、このお手紙の中では、「明法房(みょうほうぼう)がお浄土に往生なさったということは、驚くようにことではありませんが、本当にうれしく思っています」「平塚の入道殿が往生なさったこともお聞きまししたが、何とも言葉に表しようのない思いです。その尊さは言葉で言いつくすことができません」と仰っています。親しい人が亡くなって「驚くことではない」とか「うれしい」「尊い」とは、何て冷たい人だと思われるかもしれません。私たちが誰かがお亡くなりになったという知らせに対して。そのような言葉を使ってお返事をしたら「なんと不謹慎な」「何を考えているんだろう」と不快感を持たれたり、もしかしたらお叱りを受けるかもしれませんね。
「生は偶然・死は必然」という言葉があります。死は避けることの出来ない必然なのです。生まれた命は必ずその命を終えていくというこの厳粛な命の事実を、私たちは普段は理解しているのですが、実際に自分がその場面に直面すると、事実として受け止められないということもあるかと思います。ここで親鸞聖人が「驚くことではない」と仰るのは、「諸行無常」という仏さまの教えに立てば、悲しくつらいことではあるが驚くようなことではないと諭してくださっているように思います。「つらく悲しいけれども命の事実に立ちなさい」と。
そして「うれしい」「尊い」とは、「間違いなく往生された」「惑いの人生を終えて仏さまになられた」ということに対しての言葉であり、お弟子様方が亡くなったことに対して仰っているのではありません。このあとに親鸞聖人は「皆さんお一人お一人も往生は間違いないと思ってください」と仰っています。「私たちは阿弥陀様の願いにいだかれて、いつどのように命を終えることがあったとしても、間違いなく往生し仏さまにならせていただく人生を歩ませていただいているのです。先立っていかれた方々は、あらためて私たちのそのことを伝えてくださっているのですよ。」と教えてくださっているのです。