10月の法話(令和5年)
いつでもどこでもどんな時でも
私を見ていてくださる方を阿弥陀如来と言います
【今月の法語】
「かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙することなし
このゆえに号して阿弥陀とす」 (仏説阿弥陀経)
【法 話】

お釈迦さまが説かれた教えをまとめたものを経典(お経)と言います。いま私たちが見聞きすることの出来る経典のほとんどは、インドから中国に伝わり、中国の僧侶の方々が訳したものです。仏教はインドで誕生しましたのですから、もともと経典はインドの言葉で書かれたものです。それを中国の言葉に訳したものが、いま私たちが見聞きする漢文のお経です。西遊記のモデルとなった「玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)」は、インドから経典を持ち帰り、中国の言葉に訳した方のおひとりです。
その経典ですが、大変たくさんの経典が日本にも伝えられました。よく八万四千などともいわれますが、正確な数はわかっていません。その中で、私たち浄土真宗の教えが拠り所としているのが3つの経典で、一般に浄土三部経と言われています。仏説無量寿経(大経)・仏説観無量寿経(観経)・仏説阿弥陀経(小経)です。この3つの経典は、※凡夫である私たちを必ず救うと誓われた阿弥陀如来と、阿弥陀如来の世界であるお浄土(西方浄土)のことが説かれたものです。(※凡夫・・自分中心ということを離れることができない存在のこと。あらゆることに執着してありのままを受け入れることができない存在のこと)
その浄土三部経の中でも、仏説阿弥陀経という経典には、ほかの二つの経典にない特徴があります。「無問自説の経(もむんじせつのきょう)」と言い、他のお経がお弟子様や門弟の方の問いかけに対してお釈迦さまが教えを説かれているのに対して、阿弥陀経は誰も問いかけがないにもかかわらず、お釈迦さまがご自身から、お弟子の中でも筆頭者である舎利弗(サーリプトラ・お釈迦様の十大弟子のひとりで、目連とともに二大弟子のひとりとされる)に語り掛けるようにお話されたのです。このことから、阿弥陀経に説かれていることは、お釈迦さまが本当にと教えずにはおれなかったことなのだといえます。阿弥陀経の中で、お釈迦さまは34回も「舎利弗よ」と呼びかけお話をされるのですが、その中で特に「舎利弗、於汝意云何(舎利弗よ、汝が意においていかん・・舎利弗よあなたはどう思われますか)」と問いかける箇所があります。特に大事なことですから、問いかけをされているのですが、問いかけたにもかかわらず答えを待たずにお釈迦さまに語り続けます。「舎利弗よあなたはどう思われますか。なぜその仏さまを阿弥陀と申し上げるのでしょうか。実はその仏さまの智慧の光明は限りがなく、すべての国々を照らして何ものにも妨げられることがいないから、阿弥陀と申し上げるのです。また舎利弗よ、その仏さまと、その仏さまのくに(浄土)の方々の慈しみは限りことがないので、阿弥陀と申し上げるのです」
阿弥陀とは、アミターユス・アミタ―パの音写(おんしゃ 翻訳する際に意味ではなく発音する音を自国の文字にあてる訳し方)です。アミターユスとは「限りなき光(智慧)」アミタ―パとは「限りなき寿(慈悲)」という意味です。お釈迦さまが何よりも伝えたかったことは、私たちの仏様である「阿弥陀如来」は、そのお名前の通りに、いつでも、どこでも、誰でも、たとえどんなことがあっても、いつでも私を見ていてくださる方であること、いつでもご一緒であることだったのですね。
