9月の法話(令和5年)
仏さまの教えを聞く人は、
泥の中に美しい花を咲かす白蓮華と、仏さまがほめてくださるのです
【今月の法語】
「分陀利華を念仏のひとにたとへたまへるなり」 一念多念証文(親鸞聖人)
【法 話】
親鸞聖人がお書きになられた「正信念仏偈」(教行信証 行巻末)にこのような一節があります。
「一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華」

読み下してみますと「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解(こうだいしょうげ)のひととのたまへり。この人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく。」
意訳しますと「善の凡夫も悪の凡夫も、どのような人であっても阿弥陀仏の本願を信じれば、仏はこの人をすぐれた智慧を得たものであると讃え、汚れのない白い蓮の花のような人とおほめになられる。」となります。この「凡夫」ということは普段はあまり使わない言葉ですが、「凡庸なる士夫」の意味で、十分に仏教の説く道理を体得できていない人のことを言います。
仏説観無量寿経の中でお釈迦さまが、聞き手である韋提希(いだいけ)にこのように語ります。『汝はこれ凡夫なり。心想羸劣(しんそうるいれつ)にして未(いま)だ天眼(てんげん)を得ず』(あなたはまさに凡夫なのです。いつも煩悩に振り回されて心が落ち着かず、いまだに智慧の眼が開かれていないから、あらゆることをありのままに見ることができず苦しんでいるのです)』つまり「凡夫」とは、いつでも煩悩に惑わされて、物事を正しく見る智慧の眼を持たない者のことです。
このような凡夫である私たちですが、阿弥陀施如来の誓願(どんな人も必ず救い仏のさとりを開かせたいという願い)を聞いて疑うことなく生きていくならば、お釈迦さまは「広く、偉大な優れたる智慧を持つ人である」とほめてくださると親鸞聖人は仰います。仏様がほめてくださる・・これはすごいことです。一般的に宗教における信仰の基本は、信仰する神仏を私たちがほめたたえるものです。神仏が私たちをほめるということはまずありませんが、凡夫である私たちを仏様がほめてくださるというのです。お釈迦さまがこの世にお出ましになられて、多くの教えを説かれたのも、阿弥陀如来の誓願を説くためでありました(出世本懐といいます)ので、よくぞこの大切な教えを聞いて受け止め、念仏者としての生きることを「広大勝解のもの」とたたえてくださっているのです。そして仏様を象徴する花である、白い蓮(分陀利華・プンタリーカ)と名付けてくださっているのです。
とはいえ、阿弥陀如来の誓願を聞いて疑うことなく生きていても、私たちは凡夫であることに変わりはありません。けれども、どんな人も必ず救うという阿弥陀如来の教えを聞くことで、煩悩に縛られている自分自身の姿に気づかされ、これまでとは違う生き方が開かれてくることを、親鸞聖人はそのお手紙の中で「以前は無明の酒に酔って、 貪欲・瞋恚・愚痴の三毒ばかりを好んでおられましたが、 阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、 無明の酔いも次第に醒め、 少しずつ三毒も好まないようになり、 阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。(中略)^阿弥陀仏の誓願を聞いて、念仏するようになってから久しい人々は、後に迷いの世界に生れることを厭い、 わが身の悪を厭い捨てようとするすがたがあらわれてくるはずだと思います。」とお示し下さっています。
浄土真宗本願寺派門主も「念仏者の生き方」の中にも「私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。それは例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足」であり、他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語」という生き方です。たとえ、それらが仏さまの真似事といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。」と示されています。