9月の法話(令和4年)
どれほど名誉や財があったとしても、
得ることの出来ないものがありませんか?
【今月の法語】
「国を棄て王を損てて、行じて沙門となる。号して法蔵という」
仏説無量寿経
【法 話】
「ある時、ある所に、富も名誉も十分に持ち、これ以上の幸せはないというくらい恵まれた国王様がおられました。その国王はあることがきっかけになり、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という先生に出会います。その先生の教えを受けた国王は、お金や名誉や地位を持つことが幸せであると思っていたのですが、実はそれはいつなくしていくかわからないという心配を抱え、いつ崩れていくかわからないという不安におびえるものであることを思い知らされます。
またその幸せというものが限られたものだけのものであって、すべての人のものではないということ、実際に世界には富める者もいるが貧困にあえぐ者もいる、そのことに気づかず自分のことだけを考えていることは愚かなことであると思い知らされます。そして、揺らぐことなく崩れることない、そして万人にとってのほんとうの幸せとは何かを考え求めることになります。そのためにその国王は、自分の持っていた富も名誉もすべてを棄てて、ひたすらにすべての人が本当に幸せになる道を求める出家者になりました。その出家者の名前を法蔵(ほうぞう)と言います。」
これは仏説無量寿経に書かれている、阿弥陀仏が仏さまになる前のお話です。実は阿弥陀様は仏さまになる前は国王様だったのです。富にも名誉にも恵まれていたにもかかわらず、それでは本当にすべての人が幸せになることはできないと深く知ることとなり、道を求めるために修行者となり、法蔵となのられたのです。それが今月の法語「国を棄て王を損てて、行じて沙門となる。号して法蔵という」の内容なのですが、このお話は今、貨幣経済・国際社会・多様化した社会を生きている私たちに大切なことを問いかけてくださっているように思います。
古今東西お金にまつわる残念な報道は尽きることがありません。実際に報道になってなくても、お金に心を惑わされて自他ともに傷ついてしまう人は後を絶ちません。とはいえ、「お金は汚いものだ」と言ってしまうことも正しいとは言えません。なぜならばお金は使い方によっては人を助けることができるものでもあるからです。生活が困窮している人は財的支援があることになって生活にゆとりが出てきます。また毎年のように災害が起こりますが、被災された方々にとって支援金・義援金は生きる力にもなるものです。お金が汚いものであれば、このようなことも成り立ちません。お金というものは本来「善でも悪ではない単なる道具」なのですが、ただ、「たくさん持ちたい」「人よりも贅沢をしたい」「人を押しのけてでも手に入れたい」という私たちの欲望の心に火をつけてしまう可能性のあるものです。ですから、私たちにとっては欲望に振り回されずに、お金や財とどう向き合い、付き合ってくのか、私たちの心をどう整えていくのかがとても大切なことなのです。ここに宗教の役割があります。
私たちがご縁ある仏教では「布施」の実践が大切とされています。布施とは自分だけのものと握りしめるのではなく、握りしめた手を放してみんなのものとして、喜びを共有する、幸せを共有するということです。法蔵はどのようにでも変わっていく可能性のある財によるのではなく、私たちが仏道に生きること、つまり「自分のことだけでなく、一緒に生きる方々と「ともに生きる道」を歩んでいくことが、本当の幸せに至る道であることを示してくださったのです。私たちは今その心を「南無阿弥陀仏」といただいています。