10月の法話(令和2年)
10月の法話(令和2年)
あれもこれもと欲張らないで
「唯」はただこのことひとつといふ。ふたつならぶことをきらふことばなり(唯信鈔文意)
私たちの生活は「信」によって成り立っています。
たとえば、病気になった時、私たちは病院を受診しお医者様に診断していただき、薬を処方してもらい、指示通り薬を飲みます。当たり前のように思われるかもしれませんが、ここには欠くことのできない要素があります。それは「信」ということです。病院を信頼し、薬を信頼するということがなければ、そもそも受診することや薬を飲むということが成り立たなくなります。
たまたま医療を例にあげましたが、「信」ということに着目して考えみますと、医療はもちろんのこと、私たちの生活はありとあらゆるところで「信」によって成り立っていると言っても過言ではないことに気づきます。絶対的なとまでは言わなくても、ある程度の「信」ということがなければ社会説活が営めないのが現代人です。食事一つをとっても、家庭であろうが外食であろうが、提供された食事を疑いなく食するのが私たちです。「まさか毒などはいってないよな」と猜疑心で食するということはないでしょう。また、多くの方は移動の際に飛行機や列車、船や車を利用しますが、そもそもこれらの乗り物の安全性を信頼していないと乗るという行為自体がないでしょう。信頼できないから私は歩いて行く、なんて人はいないでしょう。特にすぐ寝ちゃう人もいますが、信頼あるからこそ、身を委ねることができているわけですね。
このように私たちの生活は「信」をもって成り立っているわけですが、ここで「唯信」ということに注目してみましょう。あらゆることに「信」を持っているのが私たちの生活ならば、ただこれだけという「唯信」という考えに疑問を持たれる方もいらっしゃると思います。一般に「信」は「信じる」という意味だと理解されますが、この「信じる」は言うまでもなく「疑い」を否定して成り立つものです。「信」と言いながら、「本当に大丈夫かな」という疑いはどこかに存在するものですし、また条件によっては信頼していたものに裏切られるということもあります。そのことも含めて、あらゆる事態もどこかで想定して営まれているのが私たちの生活です。
しかしながら「唯信」というこの信は、信じるという心持という意味ではなく、「まこと」という意味を持っています。どんなことがあったとしても変わることのない「まこと」(もともと「まこと」ということはどんなことがあっても変わらないかという意味を持っています)は唯、阿弥陀様の私を救うと仰ってくださる「まこと」のお心です。私たちがどう変わっても決して変わることのない阿弥陀様のお心を拠り所として、生きていくことをお勧めする言葉が「唯信・・たたせこのことひとつといふ。ふたつならぶことををきらふことばなり」なのです。