10月の法話(令和元年)
10月の法話(令和元年)
出会いは全てが宝物
原文:百千万劫にも あい遇うことがたし 【礼讃文】
現代語訳:どれほど生まれ変わり死に変わりしても巡り合うことは難しい。
活人剣(かつにんけん・兵法(剣術)の理想として柳生宗矩が提唱した思想で、「本来忌むべき存在である武力も、その用い方次第で万人を救い『活かす』ための手段となる」というもので、戦国時代が終わりを迎えた際、「太平の世における剣術」の存在意義を新たに定義したもの)で有名な「柳生家」には、これまたとても有名な家訓があります。
小才は、縁に出合って縁に気づかず。
中才は、縁に気づいて縁を活かさず。
大才は、袖すり合う縁をも活かす。
徳川家の剣術指南役でもあった柳生家ですが、家訓は仏教の根本思想である「縁」を用いて語っています。何でも自分でできていると奢ってしまうものは「小才」。これではだめだということですね。次に頭でわかっているけれども実行できないのが「中才」。もう少し自分の行き方を見つめ直しましょう、ということでしょうね。そしてこうありたい「大才」ですが、「袖すり合う縁をも活かす」とあります。ここで「袖すり合うもたしょうの縁」というよく知られた諺を思い出しますが、この諺の中の「たしょう」は漢字で書くとどんな字になるでしょうか?とお尋ねすると、「多少」と仰る方が結構おられます。多少と書いても「道ですれ違うくらいのわずかの縁でもちょっとしたご縁ですよ」というような意味で理解できますが、実際は「多少」ではないのです。辞書によると「他生」と書かれているものもありますが、もともとは仏教の言葉の「多生」であると説明しているものもあります。
「多生」と書いて「たしょう」と読むのですが、あまり見ることのない熟語ですね。これは「道ですれ違うようなわずかな縁でも、前世からの因縁である」とか、「こんなわずかな出会いでも、何度も何度も生まれ変わってやっと得ることができるようなものである」ということを教えています。前世のこととか何度も生まれ変わってもとか、そんなことを言われてもよくわからない、とかぴんと来ないというのが現代人の実感でしょうか、こんな小さな出会いさえも何度も何度も生まれ変わって得られるものだということを翻せば、いま家族として友人として仲間として出会っている出会いは、まさに奇跡だと教えていると受け取ったらどうでしょう。私たちは、そういうかけがえない、奇跡のような出会いのもとに日々を暮らしているのに、「当たり前」と思ってしまっていませんか。「当たり前」という感覚からは「感謝」ではなく「不平不満」ばかりが出てきますよ。どんな出会いも「多生の縁」と受け止めながら、暮らしていけたら「大才」になれるかな(^^)