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今月の法話(令和2年)

今月の法話(令和2年)

とにかく まず聞きましょうか。

「聞」といふは如来のちかひの御名を信ずとなり(尊号真像銘文)

新聞のお悔やみ欄を見ますと、お葬式を「仏式」でと書いてあるのを見かけると思います。

この「仏式」とは「仏教の教えに従った儀式」という意味ですが、実は一口に仏教と言いましても、たくさんの「宗派」があります。宗派とは宗教において教義などを等しくする1つの教団(グループ)のことです。日本には曹洞宗・臨済宗・日蓮宗・浄土宗・真言宗・天台宗等々、たくさんの宗派があります。そしてそれぞれの宗派の中でもまたいくつかのグループに分かれています。ちなみに私たちがご縁ある宗派の名前は、「浄土真宗(じょうどしんしゅう)」ですが、その中でも「本願寺派(通称西本願寺)」というグループになります。(他には真宗大谷派・真宗興正派・真宗仏光寺派・真宗高田派など全部で10のグループがあります)

このように、いろんな宗派がありいろんなグループがありますから、自分に縁のある(私が所属する)宗派のことを一目でわかるようにということで、浄土真宗本願寺派では、『浄土真宗の教章(私の歩む道)』というものを作成しています。この中では「宗名:浄土真宗」「宗祖:親鸞聖人」「宗派:浄土真宗本願寺派」等々と基本的なことを明記しているのですが、その中の「本尊(ほんぞん)」というところには、「阿弥陀如来(あみだにょらい)南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と書かれています。

申すまでもなく本堂やお仏壇の真ん中にご安置されている、私たちが礼拝している仏様のお名前は「阿弥陀如来(阿弥陀仏)」です。ですからそれだけ書いてあれば十分なのですが、なぜあえて「南無阿弥陀仏」と追記してあるのでしょうか。実はここに浄土真宗の特徴が表れています。

「南無」はインドの言葉の「ナモー(namo))中国で音写(意味ではなく音で訳すること)で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形です。「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈されています。「阿弥陀」は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明, amitābha)智慧をあらわします」と「アミターユス(無量の寿命, amitāyus)慈悲をあらわします」に共通するアミタ(無量,amita-)のみを音写したものです。つまり、「南無阿弥陀仏」とは「私は、はかりしれない光明(智慧)とはかりしれない寿命(慈悲)の阿弥陀仏に帰依いたします」という意味になります。こう見ていくと「南無」は「私は・・信じます」という私の信仰告白ですから、厳密に言えば仏様の名前ではありません。

一般的には、宗教とはまず私が対象となる仏様や神様を信じる(南無)という行為が先にあると理解されています。そしてその私の信仰心に応じて仏様や神様との関係が結ばれ恩恵を受けるという形だと言えます。でも、浄土真宗はちょっと違います。私が信じる(南無)心が起こるのも、私に働き続け呼び続けていてくださった阿弥陀仏がいてくださるからだと受け止めるのです。私の信じるという心(南無)より先に、阿弥陀様が私を包み込んでいてくださったという味わいから、南無さえも阿弥陀仏が準備してくださったということを「聞く」という営みを重ねながら頷いていくというのが、浄土真宗の信仰のすがただということを、「本尊:阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)」という表記は語っているのです。


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