「やわらかく しなやかに生きる。ほとけさまとともに」
【今月の法語】
それ衆生ありてこの光に遇うものは、三垢消滅して身意柔軟なり(仏説無量寿経)
◎三垢(さんく) 仏教の言葉で、三つの煩悩のこと(垢は煩悩のこと)①貪欲(とんよく 貪りの心)②瞋恚(しんに いかりの心)③愚痴(ぐち 自分勝手の心)私たちの惑いの根本となる煩悩です
◎身意柔軟(しんいにゅうなん) 身も心も素直になること、柔軟心は仏さまの教えに出会うものの得る徳の一つですが、仏教ではこの柔軟な心を非常に大切なものとしています(普賢の徳といわれます)
近年では、現代風仏壇が主流を占めていますが、かつては金仏壇が主流でした。金仏壇は手入れが大変ということもあって最近では避けられがちですが、このお仏壇に「金」が用いられていることには「きれいにおかざりする」という理由以外に大事に理由があります。それは金という天然鉱物がもつ特徴を仏さまの御心をあらわすものとしているという点です。
金は、金属としては重く、軟らかく、可鍛性がある。展性と延性に富み、非常に薄く延ばしたり、広げたりすることができる(Wikipediaより)
石川県の伝統工芸として「金箔」が有名ですが、ご存じのとおり金箔は「純金とわずかな銀と銅を合わせて合金を作る」金合わせをはじめとする「澄工程・・8つの工程があります」「箔工程・・8つの工程があります」「紙仕込み・・3つの工程があります」によってつくられます。金が軟らかく、可鍛性がある。展性と延性に富み、非常に薄く延ばしたり、広げたりすることができるという性質を持っているからこそできることです。
この軟らかい(広げたりのばしたりできる)という性質が、まさに「柔軟」ということをあらわしています。お仏壇の金は、阿弥陀如来さまの「柔軟」ということをあらわしているのです。ではなぜ阿弥陀如来さまは「柔軟」なのでしょうか。
仏教では「人間とは隨縁の存在」と教えています。隨縁とは「縁に順って様々な在り方をする」ことです。例えば今日は一日おだやかに過ごしていようと心に決めたとします。どれほどそう決心したとしても、その日にどんなことが私たちに訪れてくるかわかりません。腹を立てないと決心しても、腹を立てずにはおれない出来事が舞いこんでくることもあります。逆に今日は一日不機嫌をいようと思ったとしても、心が穏やかになるような出来事に包まれることもあるでしょう。このように私たちはどんなに自分でこうしようと決めても、多くの人や事柄と日々出会いながら生きていますから、意に反して腹を立てることも、涙を流すことも、途方に暮れることも、笑いに満ち溢れることも起こる存在なのです。ということは、私という人間に「こうありなさい」と要求しても、なかなかその要求には答えられないというのが実際のどころです。こんな隨縁の存在であり、様々なことに振り回されている私たちに「こうありなさい」とはおっしゃらずに、「どんなあなたであっても、そのままでいいよ、そのままで必ず救いますよ」というおこころが阿弥陀如来さまのお心です。紙がどんな形のものも嫌わず包み込んでいくように、阿弥陀如さまは私たちをこのまま包み込んでくださっているのです。このお心を「柔軟」といただいているのです。であれば、仏さまの教えを聞く私たちは、たしかに「隨縁の存在」ではありますが、「仏さまの柔軟の心」を「大切なモデル」として、私もできる限り軟らかく、おだやかに生きていこうと願うのが仏教徒の在り方なのでしょう。
ちなみに、金は鉄や銅などと違って、どんな状況にさらされても決して錆びたり朽ちたりすることはありません。この「強さ」を、阿弥陀様がどんなことがあっても変わることなく(不変)私たちを慈しんでいてくださることをあらわしてもいます。金によって「柔軟」「不変」を私たちに教えてくださっているのです。