「私が私でよかったと心から思えることが仏さまの願い」
【今月の法語】
群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり(仏説無量寿経)
◎群萌(ぐんもう)あらゆる人々・命あるものということ
◎真実の利(真実の利)ここでいう利とは利益(りやく)のことです。仏教の利益は仏さまの教えによって得られた恵みや幸せのことを言い、親鸞聖人は迷いを超えて必ず仏さまの成らせていただくとともに、生きている今ここに十の利益(現生十益)を得ることができますと教えてくださっています。その現生十益をご紹介します
(一) 冥衆護持の益(みょうしゅうごじのりやく) 観音・勢至・普賢・文殊のような、あらゆる菩薩さま方は勿論、人々に禍をもたらす悪鬼神さえも、仏教徒をまもってくださるということ
(四)諸仏護念の益(しょぶつごねんのやく)あらゆる仏さま方に護られながら日々の生活を送るということ
特定の宗教を信仰しているとか、信仰とまではいかなくてもその内容についてはある程度学んだりして知っているということはなくても、私たちは知らず知らずのうちに、結構宗教的な考え方というものが身についているものです。たとえば、合格祈願とか病気平癒などのように様々なことを祈願するとか、バチやタタリというものがなんとなく気になるとか、方角や字画も気になる、いう方は多いかもしれませんね。実はこれらはあまりそうだと意識されないかもしれませんが、しっかりとした宗教儀礼であり、宗教の教えに則った行為なのです。日本人の中に根付いているものと言ってもよいかもしれません。このようなことが日常化された中に私たちは生活を送っていますから、意識する、しないに関わらず、私たちの中に浸透しているものなのです。
ひとつの出来事をご紹介します。西本願寺の連続研修会の座談会の場で、つい最近、近くで起こった交通事故のことが話題になりました。とても悲しいことに、おひとりの方がその事故でお亡くなりになられました。このことが語り合いの中での話題になりました。ある一人の方が「交通事故で亡くなるとか、悲しい亡くなり方をされると成仏できないとか言われるけど、やっぱりそうなのかな。」と言われました。ほかの参加者の方々も、なんとなく「そうねえ、確かにそんな話を聞くよねえ」という感じでいらっしゃる中で、一人の男性がこう語り始めました。「今、ここにはお亡くなりの方のご家族とか、お友だちとか、知り合いの方が誰もいないから、私たちはどこか他人ごとで話すけど、もし、お亡くなりの方が自分の家族だったら、仲の良い友人だったらどうだろう。成仏できないなどと言われたら、とても悲しいだろうし、ご遺族の悲しみに何の支えにもならないと思う。自分の大切な人の人生をもっともっと大事に受け止めてほしいと思われるのではないだろうか。私は、本当に悲しいお別れだけれども、亡くなられた方は仏さまになって、いつでも見ていてくださる、見守っていてくださると思えるからこそ、周りの方々もその悲しみを何とか乗り越えていけるんじゃないかと思うんです」彼の話に反論する人は一人もいませんでした。むしろ皆さんはっとした顔をされていました。そして「そうですよね。もしかしたら私はどこか興味本位で話していたかもしれません。ご家族の立場になったら、こんな話は、お力になれないどころか深く傷つけてしまうかもしれないですね。こんな時こそ、立場を変えて考えてみることがとても大切だと気づかされました。」と最初に話し始めた方が語られました。
亡くなられたお方は、たとえどのように命の終わりを迎えたとしても、仏様となってずっと私たちを見ていてくださる。親鸞聖人が冥衆護持の益・諸仏護念の益とお示し下さっているお心のとおりではないでしょうか。