~つながる・集う・育つ~ 妙行寺ホームページへようこそ

9月の法話(平成29年)

9月の法話(平成29年)

原文…いずれの行もおよびがたき身なれば とても地獄は一定すみかぞかし (歎異抄第二条)

現代語訳:いずれの修行にもたえられない愚悪の身にはしょせん、地獄こそ定まれるすみかであるといわねばならない。


皆さん、この言葉を読まれてどんなことを考えますか?
人間は本来善なる存在だとする性善説や、本来悪であるとすると性悪説という考え方がありますが、あらためてあなたはこの性善、性悪、どちらですかと聞かれますと、さあどちらでしょう。

今も昔も、洋の東西を問わずに人間は善か悪かという議論はよく戦わされてきたのですが、実際のところは結論は出ていません。

またご年配の方の中には、善い行いをすれば極楽に、また悪い行いをすれば地獄に行くんだと聞いてこられた方も多いのではないでしょうか。それを念頭において先の文章を見ますと、どうも私たちは善なる存在ではなく、また正しい行いもできないから地獄に行くしかないと言っているように思えます。

いやいや、自分は確かに悪いこともするが、良いことをすることだってある、そんなに悪く考えなくてもよいではないかという声も聞こえそうです。

実は仏教では、人間を固定的に善であるとか悪であるとかは考えません。ではどういう考えなのかと言いますと、「縁」によって何をするかわからないのが私たちだと考えています。

 「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」 

人間は確かに善人になれることもあります。しかしその善も別の縁にふれたらすぐに怒りや妬みや嫉みに代わってしまいます。結局どのようなふるまいをするかもしれない存在であり、しいて言えば自分で自分を制御できない存在だということなのでしょう。

どんなことがあっても変わることがない善ならば本物でしょうが、ちょっとしたことでひっくり返ってしまう、下手をすると憎しみさえも生んでしまうような善を親鸞聖人は雑毒の善と厳しく指摘されました。

縁によっては欲求心によって他を傷つけていることに気づかずに、欲望充足することを目的として邁進している姿こそ、まるで地獄の中の鬼となり、またもや自らも鬼によってせまられて苦しまなければならないのもまた私の姿と言えるのかもしれません。。

親鸞聖人は自らも含めてこんな私たちの様子を、この歎異抄に表現されています。
「罪悪深重・煩悩熾盛」雑毒の善を誇り、欲望のために我を忘れる私。日々煩悩の燃え盛る私、どんな修行もやり遂げることのできない私。結局は地獄よりほかに行先のない私だったのですが、その私を必ず救うとお誓い下さったのが、南無阿弥陀仏です。親鸞聖人はこの阿弥陀如来の救いがあるからこそ、ごまかしようのない自分の、そして人間の姿に気づかれたのでした。

「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」と、地獄行きの私であるが故に、阿弥陀仏の大いなる救いの働きに全てを託されたのでありました。


8月の法話
7月の法話
6月の法話
5月の法話
4月の法話
3月の法話
2月の法話
1月の法話

平成28年 今月の法話
平成27年 今月の法話

戻る

powered by HAIK 7.3.7
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional