9月の法話(令和元年)
9月の法話(令和元年)
原文:ただ口に南無阿弥陀仏となえよとすすめたる御のりなり 【唯信鈔文意】
現代語訳:(心に阿弥陀仏を念ずることができなければ)ただ口に「南無阿弥陀仏」と称(とな)えよと勧めてくださっているみ教(おし)えである。
阿弥陀さまは、すべてのものを救うには、どうしたらいいかと、想像もつかない時間をかけて考え抜かれ、四十八願を立てられました。その最も根本の願いを本願といいますが、そこには「阿弥陀如来のことを心から疑いなく信じて、救われたいと願って、十回でも念仏を申すひとを必ず救う」と誓われています。「阿弥陀さまを信じてお念仏を申す」、それだけで救われるのです。しかし、目にも見えない仏さまのことを信じることができないのがこの私です。
阿弥陀如来のいわれをあらわす詩があります。「つねにいますを仏という ここにいますを仏という ともにいますを仏という このみほとけを南無阿弥陀仏という このいわれを聞いて喜ぶを信心という 称えて喜ぶを念仏という」。阿弥陀さまは「つねに」「ここに」「ともに」いて下さる仏さまです。そして「南無阿弥陀仏」の念仏というかたちで、呼びかけ働いておられる仏さまです。このいわれを聞いて喜ぶ心を信心といい、喜んで称えるのが念仏です。
先日、母親を亡くされて初七日の法要に来られた、七十歳前後と思われる女性がおられました。法要では、お経のお勤めのあと、阿弥陀如来の本願のことをお話しして、「心から信じてお念仏を申しましょう」とお話しをしました。法要のあと、「わからないことがあれば電話してもいいですか」とのことでしたので、「いいですよ」と言いましたら、喜ばれた様子でした。数日してから、その方から電話がありました。何だろうと思って電話をとりましたら、いきなり大きな声で泣き出されました。心からの悲痛な泣き声に、私も胸がつまりました。事情をうかがうと、こういうお話しでした。「今、仏壇の前に一人で座っています。仏壇には母のお骨を置いてあり、色々な思い出や今後のことを語りかけているうち、寂しさや悲しみがを洪水のように襲いかかって来て、どうしようもなくなりました。」ということでした。
少し間をおいて、このように申し上げました。「阿弥陀さまは、いつでもどこでも私たちのそばにおられ、必ず救うから念仏を申せと呼びかけておられる仏さまですよ。仏壇の真ん中に阿弥陀さまがおられますでしょう。手を合わせて心が落ち着くまでお念仏を申してください。十回でも百回でも何回でも」と。「わかりました。申し訳ありませんでした」と、電話は切れました。それで心が落ち着いたのか、その後電話は来ませんでした。悲しみや怒りなどで、阿弥陀さまのいわれなど信じることのできない私であっても、「なむあみだぶつなむあみだぶつ」と呼び続ける私たちを必ず救うといわれる阿弥陀さまなのです。