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7月の法話(平成29年)

7月の法話(平成29年)

思いあがっちゃだめだよ  

原文…小善根福徳の因縁をもってかの国に生ずることを得べからず(仏説阿弥陀経)    
             
 親鸞聖人の書かれたものの中には、悲しいことに自分は慈悲の心も持ち合わせていないと、悲嘆される言葉がしばしばみられます。

慈悲という言葉は仏教の教えを表す言葉で「他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つことをいう」wikipediaより)ですが、この慈悲を大乗仏教では「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲と説いています。慈悲心が起こる理由とその在りかたによって説明したものです。

法縁と無縁は、聖者や仏様の慈悲ですから私たちのものではありませんが、衆生縁(しゅじょうえん)とは衆生(生きとし生けるもの)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲(あわれみ・いつくしむ)の心ですから、私たちも日常生活の中でしばしば持つ心だといえます。

ところが、親鸞聖人はその慈悲さえも私は持ち合わせておりません、と言われるのです。「それはちょっといくら何でも言いすぎなのではないか」「そこまで否定的でなくても」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

実は、親鸞聖人は「末通らない」という言葉を加えて説明してくださっています。末通らないとは「どんなことがあっても変わることがない」ということです。このことを踏まえて考えると、少し納得できるかもしれません。たとえ、人のためを思ってしたことであったとしても、もしお礼の一つも言われない、場合によっては余計なことをするな、などと言われたらどうでしょうか。私たちの心は慈しみやあわれみでなく、怒りで満ち溢れてしまうのではないでしょうか。せっかくしてやったのに、とか人の気持ちも知らないでとか。当初は本当に相手のことを思っていたとしても、結局は何らかの見返りがなかったら、容易に怒りにも転落してしまう、それが私たちの慈悲という心の姿かもしれません。

親鸞聖人が末通らないとおっしゃる背景には、どんなことがあっても変わることのない仏様の慈悲に出会ったということがあります。だからこそ、厳しい見方だと思いますが、そうして見た時に私には慈悲の心さえもないと嘆かれたのです。

でも、誤解しないで頂きたいのは、決して慈悲ということ自体を否定しているわけではないのです。慈しみも思いやりも、謙虚であってこそで、決して思い上がりや押しつけになってしまってはならないという戒めです。良いことをしたらすぐに天狗になりがちな私たちへの「思いあがっちゃだめだよ」という戒めだと受け止めていきましょう。慈悲は私たちが社会生活を営む上で欠かせないものですし、いたわりや思い和がなければ人は生きていくこともできないのですからね。


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