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3月の法話(令和2年)

3月の法話(令和2年)

安心して生きていいんですね

原文:まったく悪は往生のさはりたるべしとにはあらず【歎異抄 第十三章】

現代語訳:けっして悪を犯すことが往生のさまたげになるというのではありません。


学生時代に「国語」や「社会」の教科書や授業で、「性善説」や「性悪説」という言葉を良く目にしたり、耳にしたりするものでした。私は悪人だろうか、善人だろうか。人間の本質は悪なのか、善なのか。わかったようでわからないまま、うやむやにして、今まで過ごしている私がいます。凄惨な殺人事件を起こした犯人を知る近所の人たちが、マスコミの取材に答えて一様に口にするのは、「あのまじめで大人しいひとが、あんなひどいことをするなんて」という趣旨の発言が多くあります。「善人と悪人の境い目ってなんだろう」と、改めて考えさせられる昨今です。

浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、私たち人間の本質を、自己中心的な凡夫であると見抜かれました。
「親鸞聖人は仰せになる。凡夫というは 無明煩悩われらが身に満ちみちて 欲もおおく いかり はらだち そねみ ねたむこころおおくひまなくして 臨終の一念にいたるまで とどまらず きえず たえず。凡夫は、命終わるその瞬間まで、煩悩から離れられないものを言う。すべてのことを私中心にみて争いをおこし、欲望・怒り・妬みに、心と身体を悩ませ苦しみ続ける。仏法に出会うとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰のことでもなく、この私のことと気づかされる。」(『拝読 浄土真宗のみ教え』より)とあります。

今から約2500年前に仏教を説かれたお釈迦さまは、あらゆるものは常なるものはない「諸行無常」や、すべてのものに我という変わらない実態はない「諸法無我」という、この世の真理を明らかにされました。しかし,その真理を自分のことと受け容れることができないため(無明)に、自己中心的な欲望、いかり、はらだち、そねみ、ねたみなどの煩悩に覆われているのが、私たち人間であると言われたのです。その煩悩を抱えた私たちであるからこそ、環境や人間関係などの縁によって、とんでもない悪事をはたらいてしまう悪人になることもあり得るということです。

親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫が本当に救われる道は、あるのだろうか」と、お釈迦さまや浄土の教えを伝えられた高僧方の教えを心から聞かれ、その道がお念仏の道であるとさとられました。死ぬまで、煩悩を抱えたままで、安心することなく苦悩の人生を送るしかない私たちに「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならず渡しける」(高僧和讃 龍樹讃)と、弥陀弘誓のふね=阿弥陀仏の本願(南無阿弥陀仏)を勧めておられるのです。


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