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2月の法話(平成30年)

2月の法話(平成30年)

原文…摂取の心光、つねに照護したまふ(正信偈)
現代語訳:阿弥陀さまの光明は、いつも私たちを照らしお護りくださっております

門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし (一休宗純禅師)

「めでたい,めでたい。あの世にまた一歩近づいたのだから、めでたいことだ。正月に飾られた門松は、まるで冥土へと向かう道しるべとなる一里塚のようなもの」といった意味の句を詠みながら、手には竹竿の先に人間の髑髏を刺したものを持ち,一休禅師は年が明けたばかりの正月の京の町を練り歩いたそうです。

一説によると,京の人々は家の前を手に髑髏のついた竿を持った不気味な僧侶が歩いているという嫌な出来事があったせいで,正月の三ヶ日の間は外に出ないようにするという風習が広まったともいわれます。

毎年元旦になると数え年では1歳を加算し一つ年を取ります。正月を迎えるということは,それだけ死が近づいたということを意味していくということになります。誰もが普段あまり自覚をしていない死へ近づいていっているということを,一休禅師は正月のお祝いムードさながらの京の人々に伝えたかったのではないでしょうか。

「生は偶然 死は必然」という言葉がありますが,当然のことながら「命」はいろいろな条件が重なった上で偶然に生まれ,またその「命」は必ず死を迎えます。正月を迎えるということは幸と不幸を一度にプレゼントされるようなものであるといった心情を詠んだのが冒頭の一休禅師の言葉でありましょう。

私たちは必ず死んでいきます。頭では必ず死がおとずれると理解しつつも「当たり前に明日がある」と思って生活しているので,自ずと「生は必然 死は偶然」だと錯覚してしまいがちになっているように思います。

親鸞聖人は,人間が持っている煩悩のこころは毒蛇や蠍のように恐ろしく,たとえ善行を修めたとしても,そこには煩悩の毒が混じっているので,真実の行とはいえないと煩悩の深さを自覚され本願他力の道に進まれました。聖人は高僧和讃の中で「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身すてはてて 法性常楽 証せしむ」と詠まれています。「煩悩はやめることはできぬけれども、煩悩だと知ることはできる」といいわれ,本願力によって煩悩具足と知らされた私が,本願力によって救われることを意味しているのではないでしょうか。

ところで,千年もの間真っ暗な光のない闇に,光をもたらすにはどれくらいの年月が必要でしょうか?

答えは一瞬です。マッチ一本つければ光ができます。闇があればこそ光の存在がわかるということです。闇があればこそ光がわかる。真実の光に照らされた私たちであればこそ自らの煩悩や欲の深い闇に気づくことができるのです。そしてまた,そのように深い闇の真っただ中にある私たちであればこそ救わずにはおれないという阿弥陀如来の慈悲に気づかせていただけるのです。だからこそ仏法に親しみ死を忘れず,日々を精一杯過ごし意義のある人生を歩んでいくことが大切なことなのではないでしょうか。


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