11月の法話(平成30年)
11月の法話(平成30年)
今ここで、本物に出あえるよろこび
原文…すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを『往生を得』とはのたまへるなり(一念多念証文)
現代語訳: ただちに、時を経ることも日を置くこともなく、必ず仏さまにならせていただく位に確かに定まることを「往生を得る」と仰っているのです。
私たちは普段の会話の中で、もともと仏教の教えをあらわす言葉(仏教用語)を意識せず、或いはそうと知らずに使っていることが多いです。たとえば「縁起が悪い」とか、「因縁をつけられた」などもよく聞きますが、どちらもあまりいい意味ではありませんね。でも、「縁起」や「因縁」は、もともと仏教の根幹をなす考えである「因縁生起(いんねんしょうき)」という大切な言葉です。この因縁生起は、どんなものも単独でなりたっているものはないということを教えています。たとえば花が咲くためには、種が必要ですから、種は花が咲く「因」になります。でも、種のままでは花が咲きません。根をはる土が必要です。土には肥料などの養分が必要です。さらに、水や二酸化炭素はもちろん、温度、太陽の光、そして育てる労力や咲くことを邪魔されないという条件すらも必要です。これらの花が咲くための間接的な原因を「縁」というのです。あらゆる条件が整ってようやく結果として花が咲くのです。私たちの「いのち」にも全く同じことが言えますね。
同様に、「往生」という言葉も、「立往生した」「往生際が悪い」などと、困るとか行き詰るという意味でつかわれることが多いですが、本来は「迷いの世界である娑婆(私たちが苦悩を抱えながら生きている世界・この世のこと) に生きている私たちが、さとりの世界である仏様の世界(お浄土のこと)に生まれる」ことを教える仏教の大切な言葉です。もともとは「困る・行き詰る」という意味は持っていないのですね。ただし、仏様の世界に生まれるのは、この世のいのちが終わったとき(私たちが死ぬとき)のことですから、これだけだとどうしても、やはり仏教は死んだ後のことを言う教えということになってしまいがちです。けれどもその「往生」を、親鸞聖人は亡くなった時だけでなく、私たちの生きている今においても語ってくださっています。「往生」とはそれまでの「いのち終った時に阿弥陀様のお浄土に生まれ仏さまにならせていただく」という理解に加えて「阿弥陀様の願いを聞き、私も必ず仏さまにならせていただく身であることを気づき頷いて、このいのちを精一杯に生きる」ことも「往生」だと親鸞聖人は教えてくださいます。これは当時ではもちろん、現代でも画期的なことです。どうしても死後のことと思われがちな仏教を、まさに今ここのことだと明らかにしてくださったのですから。
私たちの人生には、それまでの自分と違う生き方や考え方をするようになるというような、人生の転機があります。その転機を迎えるきっかけは、人との出会いであったり、挫折であったりと人様々ですが、親鸞聖人は私たちの人生でも最も大きな転機は、ほかでもない、決して変わることのない真心(阿弥陀様の願い)」に出会ったときだと教えてくださっています。
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