10月の法話(平成30年)
10月の法話(平成30年)
どんなときでも 道はある
原文…無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな(正像末和讃)
現代語訳:阿弥陀如来の本願は煩悩によって迷う衆生を照らす灯火であるから智慧の眼が暗いと悲しむことはない。
今日も一日、私達はしあわせを追い求めて生きています。そのしあわせをあなたは、他の人とくらべることによって感じようとしていませんか。よく「私、しあわせです」と言われる方もいらっしゃいますが、そんな時は、「ほんとにそうですか」と改めてお尋ねいたします。そうすると、必ずと言っていいほど返ってくる言葉は、「あの人たちと、この人たちと比べてみると」と言う方がほとんどです。人と比べてなんですね。そんな時に比べる基準になるのは、どれほどのものを持っているかや、どんな地位や立場なのかです。それらは、今はあってもなくなってしまうものかもしれないのですが。お金もまたそうです。
本願寺の標語に「優越感、ひそかにひそむ差別心」とあります。持っていることが比較となり、比しては人を下に見ることになってしまいます。そうなると、本当の幸福になる道は遠のいていきます。嫉み妬みや怒りの思いが深まって、争いが絶えまなく続くことでしょう。
ある本に、『隊商が、ある遠いところへの旅行の出発にあたって、道案内をさがしていました。かれらは、その案内者のさしずにしたがって、けわしい山を越え、危険なジャングルをくぐり、砂漠にさしかかりました。砂漠の旅は、単調なくりかえしと、のどのかわきとのたたかいです。やがて隊員たちは、案内者をうとんじはじめました。荷物もになわずラクダの世話もせず、目的地はと問えば、「あちら、西の方へ前進だ」と答えるだけの案内者に、隊員たちは貴重な水を分けることをおしみ、はてはついに追放してしまいました。だが、なにもしないように思われていた案内者は、じつは夜明けまえに起きだして、星座をみては自分たちのおかれている位置をたしかめ、これから進む方角を定めていたのであります。その案内者を追放したあげく、みずからの位置と方角をみうしなった隊商は、やがて砂漠のなかで死のさまよいを続けてゆかねばなりませんでした。』と書いてありました。
まさに、今の時代を言い当てているように思えます。人間の目先の利便性だけを追い求めて、今まで本当に大切なものまでも排除してきました。こういう価値観を、本当にそれでいいのかと問い、誤った歩みに軌道修正をかけてくれるのが仏教です。その中でも、浄土真宗の仏壇(阿弥陀如来)の前に座ることは、私自身が彷徨っていることを教えてくれると同時に、どんなことがあってもあなたを捨てない、必ず浄土往生せしめると言う心をいただくことです。その働きをの中において、私たちは本当に不安を超えていく歩み、揺らぐことのない幸福を得られるのではないでしょうか。