浄土真宗の教え

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浄土真宗の教え

TEACHINGS

浄土真宗の教え

親鸞聖人によって明らかにされた浄土真宗の教えは、
阿弥陀如来の本願によって生きとし生けるものすべてが平等に救われていくという教えです。
浄土真宗本願寺派の宗制には、
「本宗門の宗祖親鸞聖人は、『顕浄土真実教行証文類』を著し、龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空の七高僧の釈義を承け、『仏説無量寿経』の本義を開顕して、本願名号の真実の教えを明らかにされた。これが浄土真宗の立教開宗である。本宗門は、その教えによって、本願名号を聞信し念仏する人々の同朋教団であり、あらゆる人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝え、もって自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献するものである」と示されています。
こうした親鸞聖人の教えをしたい、宗門に集う方々に心得ていただきたい浄土真宗の要旨として、2008年4月15日に「浄土真宗の教章(私の歩む道)」が新たに制定されました。

浄土真宗の教章(私の歩む道)

宗名 浄土真宗
宗祖
(ご開山)
親鸞聖人
ご誕生 1173年5月21日
(承安3年4月1日)
ご往生 1263年1月16日
(弘長2年11月28日)
宗派 浄土真宗本願寺派
本山 龍谷山 本願寺(西本願寺)
本尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
聖典 ●釈迦如来によって説かれた
「浄土三部経」
『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』
●宗祖 親鸞聖人が著述された主な聖教
『正信念仏偈』(『教行信証』行巻末の偈文)『浄土和讃』
『高僧和讃』『正像末和讃』
●中興の祖 蓮如上人のお手紙『御文章』
教義 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に戻って人々を教化する。
生活 親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来の み心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。
宗門 この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。
それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。

LIFETIME

親鸞聖人の生涯

誕生から出家・得度

親鸞聖人は、平安時代も終わりに近い承安三年(1173)の春、京都・日野の里にてお生まれになられました。藤原家の流れを汲む日野有範の長男であり、幼名は「松若丸」といいました。このころ京都では地震や台風といった自然災害に加え、大火事や大飢饉も発生するなど大きな混乱に包まれており、親鸞聖人自身も父母との別れを経験し、幼い身でありながら世の無常を目の当たりにされておりました。
養和元年(1181)春、伯父の日野範綱に伴われ、京都・東山の慈円和尚のもと、わずか9歳で出家・得度をされ、「範宴」という僧名を称されました。それから聖人は、青少年期の20年間を比叡山において天台浄土教を学び、主に横川の首楞厳院で不断念仏を行う堂僧として、厳しい修行にも励まれたのでした。

法然聖人との出会い

20年間にわたる比叡山での学問と修行を続けてきた親鸞聖人は、悟りに至る道を見出すことができず、
真の仏教者たるべき道を求めて比叡山を下るべきか思い悩んでいました。
建仁元年(1201)29歳のとき、もう一度自分自身を根本的に見直し、これからの人生を見定めていかねばという思いの中で、ついに山を下りる決意をし、尊崇する聖徳太子の本地である救世観音像が祀られている六角堂へ、100日間の参籠を始められました。
100日参りが終わりへと近づく95日目の暁、救世観音からの夢告を得られ、自身の今後の人生を托するにふさわしい教えに遇おうと、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然上人の草庵を訪ねられました。
そこで出遇われた教えは、「ただ本願を信じ念仏して、阿弥陀さまに救われなさい」という、南無阿弥陀仏のお念仏をいただき、浄土に往生して仏となる専修念仏の道でありました。
親鸞聖人はこれこそ自分に与えられたただ一つの道であったことに気づかれ、生涯の師となる法然上人の弟子になられました。

専修念仏弾圧と流罪

法然上人の弟子となられてからも、さらに聞法と研学に励まれた親鸞聖人は、法然上人の肖像(肖像画)と主著である「選択集」の書写を許されるなど、法然門下に帰入してから約4年の間に大きな信頼を得られました。
法然上人の説かれる専修念仏の教えは京都中に広まり、草庵には老若男女多くの人々が集っていました。しかし、その教えを正しく理解せず、お念仏の輪を乱す者も現れはじめ、旧仏教教団からは激しい批判を出されてしまいます。
そうしたこともあり、承元元年(1207)にお念仏の教えは朝廷によって禁止され、4名が死罪、法然上人や親鸞聖人を含む8名が流罪に処せられました。親鸞聖人は越後(現在の新潟県)に流罪となり、これを機に「愚禿親鸞」と名のられ、僧侶でもなければ、俗人でもないという非僧非俗の立場に立たれました。この頃に生涯の伴侶となる恵信尼さまと結婚され、生涯で男女6人の子女をもうけられ、在俗のままお念仏の生活を営まれました。

関東伝道

親鸞聖人39歳のとき、流罪は許されましたが、しばらくは越後の地に留まり、建保2年(1214)、ご家族とともに関東へ赴かれました。
信濃国(長野県)の北部を通り、上野国(群馬県)佐貫を経て、常陸国(茨城県)稲田へと入っていかれ、稲田の草庵を中心としておよそ20年間、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられました。

『教行信証』を執筆

まだ、関東在住されている元仁元年(1224)ごろ、たび重なる専修念仏者へ対する不当な弾圧が続いていることから、仏教における専修念仏の正しい位置づけを著すべく、聖人は浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生の大著『教行信証』を著しました。なお、一応の完成をさせて以降も関東伝道のかたわらから往生するまで、常に座右において補正を加え続けられました。
そして、嘉禎元年(1235)、親鸞聖人63歳のころ、20年に及んだ関東での教化を終えられ、ご家族を伴って京都に帰られました。主に弟たちの房舎に仮住まいされ、建長七年(1255)の暮には五条西洞院に住み火災に遭ったこともありました。その後は、弟の尋有が住んでいた善法坊に身を寄せ、『教行信証』の添削を続けるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝え、書簡で他力念仏の質問に答えられました。

ご往生と教団の形成

弘長二年(1263)90歳に達された親鸞聖人は、もはや余命も長くないことを感じ、関東の念仏者へ御消息を送られていましたが、その筆跡はかなり乱れており、思うように筆を運べなくなるほど老衰の身となっていました。同居していた弟の尋有や末娘の覚信尼のほか数名の門弟が見守る中、11月28日(新暦1263年1月16日)、往生の素懐を遂げられました。
その後、親鸞聖人のご遺骨は東山の大谷の地に納められ、お堂が建てられました。親鸞聖人がご往生されてからもそのご遺徳を慕う門弟は多く、説かれたお念仏のみ教えを大切に守り伝えていくために、このお堂は後年「本願寺」となっていくのでした。

LIFETIME

お釈迦さまの生涯

お釈迦さまの生涯

お釈迦さまは、今から約2500年前にインド北部のネパール・ルンビニーにお生まれになられました。「釈迦」とは、お釈迦さまが「シャカ族」という部族の出身であったことに由来し、「シャカ族の尊いお方」という意味で、私たちはお釈迦さまや釈尊とお呼びしています。

お釈迦さまのご誕生

お釈迦さまは、ルンビニーの園でお母様であるマーヤー夫人の脇からお生まれになり、すぐに立ち上がって7歩歩き、右手で天を、左手で地を指差して「天上天下唯我独尊」と宣言されたと伝えられています。
誕生から間もなく、マーヤー夫人は亡くなられており、その悲しみはお釈迦さまの人生に深い影響を与えたと考えられています。

四門出遊:人生の苦しみを知る

王位継承者として何不自由なく過ごしていたお釈迦さまは、あるとき城外に出て、東の門で老い、南の門で病、西の門で死に直面する人々と出会い、人生には避けられない苦しみがあることを知ります。
そして、北の門で清らかに修行する沙門と呼ばれる僧侶に出会い、出家を決意されました。

出家と苦行

お釈迦さまは29歳のとき、王子としての地位や家族を捨て、苦しみの根源である煩悩を断つために出家なされました。
瞑想や苦行に打ち込み、6年もの間、食事や睡眠を極限まで制限して修行されましたが、それでも満足な悟りを得ることはできず、最終的に苦行をやめる決断をしました。

さとりと仏陀としての目覚め

苦行で心身ともに衰弱していたお釈迦さまは、村娘スジャータから乳粥を施され、体力を回復しました。
そしてブッダガヤーの菩提樹の下で深い瞑想に入り、ついに悟りを開き、仏陀(目覚めた者)となりました。

教えを説く

仏陀となられたお釈迦さまは、多くの人々に人生の苦しみを乗り越えるための真理を説かれました。
お釈迦さまの教えを「法」と呼び、弟子たちはその教えに感銘を受け、次第に教団は拡大していきました。

入滅

80歳を迎えたお釈迦さまは、生まれ故郷に戻る最後の旅に出られましたが、旅の途中で施された食事が原因で食中毒となり、クシナガラの沙羅双樹の下で入滅されました。弟子たちはその後、お釈迦さまの教えを確認しあい、その言葉が「お経」として後世に伝わり、今でも私たちはお釈迦さまの教えを聞くことができるのです。