妙行寺の沿革

HISTORY

沿革

HISTORY

妙行寺の沿革

今からおよそ400年前の慶長12年(1607年)。
肥前国藤津郡能古見郷旧末光村(現在の佐賀県鹿島市)に井上新左エ門通経(法名巨海)が佐賀藩主鍋島勝茂の許可を受けて、
妙行寺を開基しました。

そして、明治維新後の明治14(1881)年。
和田川にかかる潮見橋のたもとに、妙行寺の説教所が開設されました。
この説教所設立以降、鹿児島における妙行寺の歴史が始まります。

なぜ佐賀県にある寺院が鹿児島に説教所を設立したのか、それは室町時代末期から始まった薩摩藩による念仏(浄土真宗)禁制の歴史が背景にあります。

薩摩の念仏者たちは禁が説かれるまでの約300年間、隠れて浄土真宗の教えを護ってきていました。このかくれて信仰を護ってきた姿を「かくれ念仏」と言います。

また、幕末から全国的に起こった仏教弾圧運動「廃仏毀釈」では、薩摩藩に存在した仏教寺院はすべて破却され、僧侶も全員が還俗させられるなど、他に類を見ない厳しい環境の中であっても、先人たちは浄土真宗の教えを確かに護り伝えてきました。

そして、1876(明治9)年9月5日。鹿児島県参事の田畑常秋氏より「各宗旨ノ儀自今人民各自ノ信仰二任セ候条此段布達候条」の布達が出され、鹿児島における長い浄土真宗禁制の歴史が終わり、その後、京都本願寺をはじめ各地から、浄土真宗の教えを伝えるために多くの僧侶が鹿児島の地に入りました。

佐賀にあった妙行寺も明治14(1881)年に谷山郡谷山村字塩屋に妙行寺説教所設置し、明治19(1886)年に佐賀県知事より移転許可を得て、明治21(1888)年に正式な寺号公称が行われました。

慶長12
(1607)年
肥前国藤津郡能古見郷旧末光村に井上新左エ門通経(法名巨海)妙行寺を設立
明治14
(1881)年
薩摩国谷山郡谷山村字塩屋に妙行寺説教所設置許可
明治15
(1882)年
同説教所完成(潮見橋袂)
明治19
(1886)年
妙行寺佐賀よりの移転許可
(明如上人より許可)
明治21
(1888)年
妙行寺薩摩国谷山郡谷山村字塩屋にて寺号公称
5月15日佐賀県知事許可・6月19日鹿児島県知事許可
大正12
(1923)年
潮見橋袂より現在の地へ移転・本堂竣工
新境内地造営のために「洗心橋」橋(大正6年)
昭和29
(1954)年
谷山幼稚園設置
昭和38
(1963)年
旧第一納骨堂設置
昭和44
(1969)年
現本堂竣工
昭和48
(1973)年
旧第二納骨堂設置
昭和60
(1985)年
現第二納骨堂設置
平成2
(1990)年
東谷山出張所開設
(出張所第一納骨堂設置)
平成3
(1991)年
妙行寺門徒会設立
平成8
(1996)年
新第一納骨堂設置
平成14
(2002)年
現門徒会館完成
平成18
(2006)年
出張所第二納骨堂設置
平成29
(2017)年
合同納骨堂設置

【浄土真宗禁制の歴史】
旧薩摩藩や旧人吉藩においては、300年にわたり浄土真宗が弾圧されたが、信者は講という信仰共同体を組織して信仰を護った。浄土真宗は第八代蓮如上人以来、「講」と呼ばれる組織のネットワークを持っていた。300年間、信仰が継承された背景にはこの講の組織があった。講は「番役」というリーダーを中心に、身分の区別なく組織され、「取次役」を通じて本山の本願寺と繋がっていた。浄土真宗門徒はこのような講の組織を背景に、山中の洞穴などで法座を開いて信仰を継承した。また抜け参りといって、藩境を超えて信仰の許されている藩の真宗寺院に参詣することも行われた。熊本県水俣市にある浄土真宗本願寺派の源光寺には、薩摩部屋というものが残されている。これは薩摩から密出国した一向宗門徒が、世間の目に触れないように身を隠した場所だという。

【廃仏毀釈】
明治新政府は慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊のこと。神仏分離令や大教宣布はあくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。明治4年正月5日(1871年2月23日)付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。